修養会の最中に体調が悪くなり、夫たちがいる坂の上の礼拝堂に後から向かいました。薄暗い山道の木製の階段をゆっくり上り、崩れかけた丸太の上でたった一人立ち止まり一服しました。賛美歌が聞こえだすと「主よ、助けてください」と小声で祈り、ゆっくり歩いて小さな部屋を目指しました。治まらない疼痛(とうつう)の中で呼吸を整え、私の声を聞いてくださる神に感謝しました。

聖書に記された最も親密な礼拝の舞台は荒れ野でした。息子アブサロムを逃れてユダの荒れ野に隠れていた時のことでしょう。ダビデは「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め わたしの魂はあなたを渇き求めます」(詩63:2)と礼拝しました。神の御力と栄光を既に経験していたので、ダビデは、神の愛は「命にもまさる」(4節)と思っていました。それが、生涯、神を礼拝した理由です(3-7節)。そこが荒れ野でも……。ダビデは「あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。わたしの魂はあなたに付き従い あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます」(8-9節)と賛美します。

対峙(たいじ)するものの猛々しさや状況のいかんにかかわらず、私たちも神をたたえて信仰を実践できます(12節)。自分には落ち度がないのに苦しむことが、時にはあるかもしれません。しかし、神の慈しみは命にもまさる、と信じることは可能です。