同僚が仕事の電話をかけてきました。体調はどうかと尋ねられたので、副鼻腔炎で薬も効かずつらいと答えました。すると彼女は祈ってもよいかと尋ねました。私がお願いすると30秒ほどの短い祈りをささげてくれました。私は「そういえば、祈っていなかった。痛みにばかり気を取られて、神にお願いしていなかったわ」と告白しました。

そう言ってみて、自分は何にフォーカスしているのだろうと思いました。自分の問題やつらさでしょうか。それとも神でしょうか。聖書は、私たちの癒やし主、守り主である神に焦点を定めるならば、私たちは平安に過ごすことができると述べます。「堅固な思いを、あなたは平和に守られる あなたに信頼するゆえに、平和に」(イザ26:3)と語るのです。信じたから、祈ったからといって、痛みが即、消えるわけではありません。この世の人生では、痛みが去らないかもしれません。しかし「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」(4節)と、預言者イザヤは語ります。この御言葉は、捕囚の地バビロンで暮らすイスラエル人に向けて語られたものです。彼は、御民が再び勝利の歌を賛美する日が来ると宣言しています(1–2節)。このイザヤの言葉は、どんな苦境にいたとしても、信頼の心で神に助けを乞うならば、私たちも慰められることを教えてくれます。