神から借り受けた祝福
友人のジェフと食事をしたとき、彼は「神よ、あなたの空気を吸い、あなたの食べ物をいただけることを感謝します」と祈りました。失業の憂き目を見たところなのに、心から神を信頼しつつ、すべてが神のものだと確信していました。私は感動しました。そして、私は、些細な日用品でも全部が神のもので、自分は単にそれを使わせてもらっているだけだと、本当に分かっているだろうかと自らに問いかけました。
他の人と比べない
友人のスーが昼食のときに何気なく「いずれフェイスブックに良いことばかりじゃなくて、全てを載せるわ」と夫に言ったと聞いて大笑いしました。ソーシャルメディアは、昔の友人や遠方の知人の近況を知ったり、彼らのために祈ったりできる利点がありますが、落とし穴もあります。生活の楽しい部分ばかりが投稿されているので、みんなの人生は順風満帆だと錯覚し、なぜ自分だけがこうも大変なのだろうと落ち込んでしまうかもしれません。
豊かさと苦しみ
アン・ヴォスカンプは著書『1000の贈り物』の中で、神がしてくださったことを毎日の生活の中で見つけなさいと勧めています。そうすれば、台所のシンクに虹色の泡ができた、という些細なことから、自分のような罪人にさえ救いが与えられたという大きなことまで、神が様々な形で豊かに施してくださっていることに気づきます。彼女は、感謝の心が、どんな苦境にあっても神を見出す鍵だと言います。
美しいモザイク
イスラエルのエン・カレムにある訪問教会の庭には67枚のモザイク版があり、ルカの福音書1章46節から55節のみことばが多くの言語で記されています。このみことばは、救い主の母になると知らされたマリヤの喜びの応答で、ラテン語で「讃える」を意味する「マニフィカト」と伝統的に呼ばれています。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。…力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」(46-49節)。これは、彼女とイスラエルの民に対する神の真実をたたえるマリヤの賛歌です。
あなたのすべてに感謝!
母の看護でがんセンターに泊まり込んでいたとき、夫のフランクを同じように看護していたロ―リーと知り合いました。私たちは共有スペースで、おしゃべりをしたり、愚痴をこぼしたり、笑ったり、泣いたり、時には祈ったりしました。お互いに支え合いながら、それぞれの家族を看病しました。
感謝で神をたたえる
先日、がんと診断された夫に話しているのに、主治医は険しい顔もせず、毎日を感謝で始めましょうと笑顔で言いました。「最低でも3つのこと」を感謝するという彼女の提案に、神がよいお方であると確認するのにふさわしい方法だと夫は同意しました。そして「感謝します、主よ。良い眠りを。清潔なベッドを。太陽を。食卓の朝食を。そして私が笑顔でいられることを」と賛美して一日を始めています。
感謝する態度
痛みに耐える長年の疲れと自由に身体を動かせない苛立ちが極限に達し、私は不機嫌でした。過度な要求をしがちで、感謝を失っていました。夫の介護の仕方に文句を言い、掃除にケチをつけました。彼の料理は本当に美味しいのに、献立が単調だと大騒ぎしました。ついに夫が、私の不平に傷ついていると言うと逆ギレでした。どれほど苦しいのか分からないくせに…と。やがて、神は私が間違っていると気づかせてくださり、夫と主に謝罪しました。
素晴らしい造り主
神の創造の御業の一端をカメラで撮ることは、私のアマチュア写真家としての喜びです。美しい花びら、輝かしい日の出や日の入り、雲に彩られたり星がまたたいたりする空には、神の指の跡がついていると思います。
祈ること
私は英国の作家G.K.チェスタトンの作品が好きです。彼の洞察力やユーモアにはクスッと笑わされ、同時に深く考えさせられます。たとえば、彼はこう書いています。「人は食前の祈りをすると言います。けれど私は、演劇やオペラの前、コンサートやパントマイムの前、読書やスケッチ、絵画、水泳、フェンシング、ボクシング、散歩、遊び、ダンス、そしてインク壺にペンを浸す前にも、祈ります。」