自然を楽しむ
美しい夕日を求めて旅をしたり、散歩の途中に立ち止まって写真を撮ったりして、日没の景色を楽しもうとしたことはありませんか。最近、私たち夫婦は、メキシコ湾の夕日を眺めに出かけました。その海岸には、この日没という自然現象を見るために大勢の人が集まっていました。それぞれ知らない者同士でしたが、太陽が沈んで行き水平線から完全に姿を消すと、みんなで一斉に拍手をしました。
イエスとともに住む
人は安心できる自分の居場所の存在を願い求めています。「我が家に勝るところはない」という言葉は、そういう気持ちの表れでしょう。イエスは、そういう場所について、最後の晩餐の折に語られました。主はご自分の死期が迫っていること、そしてよみがえりについて語られました。また、ご自分はこの世を一旦去った後、弟子たちのために天国に住まいを用意し、また戻ってくると約束されました。その場所こそ永遠の我が家です。
理解し面倒を見てくださる
無気力で社会に無関心な人が増えていることをどう思いますかと問われた人が、「そういうことには関心は無いので」と冗談まじりで返答しました。
愛の代償
外国で暮らしている私たちの家にしばらく滞在して帰国の途につく両親に「さよなら」と手を振っていると、幼い娘が泣き出しました。「行かないで!」と泣く娘をなだめていると、夫は「可愛そうだけど、これは愛の代償だ」と言いました。
十字架を覚えて
教会の礼拝堂の正面に大きな十字架があります。人間の罪と神の聖(きよ)さが交差した、あのイエスがかかられた十字架の象徴です。私たちの悪い行為、発言、態度、考えなどすべての罪を贖うために、全く罪のない神の御子が死なれました。私たちが当然の報いとして受けるべき永遠の死から救われるために、神の御業が完成しました(ロマ6:23)。
私のために捨てられた
バージニア大学の研究者が、痛みに襲われる時の脳の反応を調べました。ひとりの場合、知らない人が手を握ってくれた場合、親しい人が手を握ってくれた場合で違いがあるかを調べたのです。数十組のペアで実験し、一貫した結果が得られました。ひとり、または、知らない人が手を握っている場合は、危険を処理する脳の領域が活発に活動していましたが、友人の場合は静かでした。友がそばにいると、痛みは軽減するようです。
髪を下ろす
マリヤは十字架を前にしたイエスの足に香油を注いだだけでなく、自分の髪で主の御足を拭きました(ヨハ12:3)。彼女は一生かけて蓄えたかもしれない高価な香油のみならず自分の評判も犠牲にしました。というのは、当時、良家の女性は人前では髪を下ろさなかったのです。イエスを礼拝するためなら、何を言われても構わないと考えたのでしょう。真の礼拝は人の目を気にしません(Ⅱサム6:21-22)。
ベストフレンド
私は12歳のとき、家族といっしょに砂漠の小さな町に引っ越しました。体育の授業の後は喉がからからになるので、クラスの皆は水飲み場に駆け出します。けれども私はきゃしゃで童顔だったので、水飲み場の列から押し出されることがありました。ところがある日、大柄で力の強い友だちのホゼが「おい、バンクスの番だろう」と言って、身体を張って守ってくれました。それ以後、水飲み場の問題は解消されました。
信仰の旅路
ルー・ウォーレスの小説『ベン・ハー キリストの物語』は、最も世に影響を与えた19世紀のキリスト教書籍と言われます。ユダ・ベン・ハーという架空のユダヤ青年貴族と実在のイエスの生涯を紡ぎ合せた物語は、1880年の初版から今に至るまで読む人々の心を魅了します。