ちりの芸術
神は、ご自分の芸術作品であるアダムを造る材料としてちりを選ばれましたが(創2:7)、この材料は、足りなくなる心配がありません。「小さな塵の大きな不思議」(原書名 The Secret Life of Dust)の著者ハナ・ホームズによると、砂漠から風で巻き上げられる砂塵は1年間で10億トンから30億トンだといいます。10億トンは満杯の貨車1400万両分。1400万両の貨車を並べると、赤道を六周する長さになるそうです。
このちりをお金を出して買う人などありません。どこにでも捨てるほどあります。私は、我が家のちりは我慢できる間は見えないことにしています。そっとしておけば目立たない、というのが私の理屈なのですが、それでもちりは少しずつ積もっていき、いずれは掃除して綺麗にしなければなりません。
ちりを取り除けば、綺麗になった表面に自分の姿が映って見えます。同時に別のことも見えてきます。それは、こんな価値のないちりを使って、とても貴重なもの、すなわち、あなたや私という一人ひとりの人を、神が造り出してくださった(創2:7)ということです。
神がちりを用いて人類を創造されたことを考えると、何か(または誰か)を価値が無い、と簡単に決めつけてはならないと思います。悩みの種だから取り除いてしまいたいような人や問題こそ、実は、神がご自分の栄光を現すために素材として選ばれたのかもしれません。
ひとりずつ
エドワード・ペイソン牧師は過ぎし日の有名な説教者のひとりですが、ある嵐の日の主日礼拝に集った人は、たったひとりでした。その数ヶ月後、あのときひとりで礼拝していた人がやって来て、「私はあの礼拝で救い主と出会いました」と言いました。「あなたが罪と救いについて語るたびに、誰のことかと周りを見回しました。しかし、そこにいるのは私ひとりでしたから、語られた一語一語は私に向けられたものだと受け止めて、良心に刻むよりほかなかったのです」。
このように神は、私たちをひとり、またひとりと救ってくださいますから、そのひとりに出会う機会があるのなら、そこがあなたの宣教地です。「キリストが宿る心を持つ人は、誰でも宣教師であり、キリストを知らない人の心は、宣教の地だ」というスローガンもあります。世界宣教をひとりですることはできませんが、隣人を愛することはできます。その「隣人」とは、生活の中で出会っていく人たちのことです。
ピリポは、聖書の意味が分からなくて困っていたエチオピヤ人の宦官と、聖霊に導かれて出会いました(使8:26-35)。聖霊は、ピリポに適切なことばを与え、宦官はキリストを信じる信仰を告白したのです。
神が準備してくださった人と出会えるように祈りましょう。神は、適切な時と適切な場所でその人に語れるように導いてくださいます。主はあなたの口を通して語り、あなたの手を使って御業をなし、あなたの内に御心にかなった偉大なご計画を成し遂げられます。
素晴らしく作られている
最近、目の検査を受けたとき、今まで見たこともない装置が運ばれてきました。医者にそれは何かと聞くと、「この装置を用いて、あなたの目の奥の内側の写真を撮ります」という返事でした。
そんなことができるカメラが発明されたことに驚きましたが、その写真から得られる情報には、さらに驚かされました。医者は「目の奥を見るだけで現在のあなたの健康状態が分かりますよ」と言ったのです。
目の状態を見ると、全身の健康が判断できるというのは驚きです。神はこのように、細部にまで配慮して人の身体を創造されたのです。ダビデの詩の一節が浮かびました。ダビデは詩篇の中で「私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています」と語り、神の創造の御業をたたえました(詩139:14)。
私たちの身体は、非常に複雑にできています。これは創造主の偉大な英知の反映です。神のデザインの素晴らしさは、息を呑むばかりです。さあ、神をあがめ、礼拝しましょう。
安らぎの家
建設会社の人事部に勤務していたときのことです。会社が隣の州の仕事を受注して、作業員たちの通勤時間が往復4時間ほどになりました。私たちは、彼らの負担を軽くするために、現場近くで宿泊施設を確保しましたが、同時に運転手付のワゴン車も手配して自宅通勤の希望者にも備えました。驚いたことに、ほとんどの作業員は自宅通勤を選びました。
その中の一人は、職場で一番気難しい人でした。ところが彼は、別人のような笑顔で最初の夜に帰宅したときのことを嬉しそうに話しました。彼は通勤という選択肢があることを話さず、家族をびっくりさせようと思っていました。案の定、彼が帰ると、妻と4人の息子たちは驚いて大喜びしたのです。後日、彼の妻は社長にお礼の電話をしてきました。そして、家庭が大切であることを分かってくれる会社には、家族一丸となって誠を尽くし、ずっと支えていくつもりだ、と言ったそうです。
イエスは永遠の住まいをあげようと言われましたが(ヨハ14:2)、そのおことばに弟子たちがどれほど慰められたかは、短期間でも自宅に帰ることができなかった人ならわかるでしょう。イエスは、「あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(3節)とおっしゃったのですから、これ以上の喜びはありません。イエスとともにいられるのは最大の喜びです。
主イエスとともに住むために私たちは天の我が家に行く、とイエスは約束してくださいました。これは人生最大の慰めです。
デビッド、よくやった
デビッド・シュムは、脳性麻痺に侵されながらも楽天的で、忍耐強く、信仰深い人でした。私たちは彼の葬儀で、彼の人となりを心からたたえました。彼の74年の生涯は、日常生活の簡単な作業さえも労苦する大変なものでした。にもかかわらず、笑顔を絶やさず、病院で2万3千時間以上もボランティア活動をしたり、家庭環境に問題のあるティーンエイジャーを支える働きに携わったりしました。
デビッドは生前、自分の葬儀の聖書朗読は、イザヤ書35章3節~10節にしてほしいと言っていました。「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。…そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ』」(3-4、6節)。このみことばは、捕囚の身となったイスラエル人に向けて語られた神の約束です。私たちクリスチャンにとっては、キリストが再臨されるという希望を再確認させてくれるみことばでもあります。
デビッドは生涯最後の数週間、見舞いに来る人たちに、ベッド脇にあるイエスの大きな絵を指して、「主イエスはもうすぐ、ぼくを迎えに来てくれるよ」と話していました。これは、神の子どもたちすべてに賜った希望です。だから私たちは、イエスに感謝し、イエスを賛美するのです。
過去の回復
後悔をしたことはないという人はいないでしょう。誤った選択を繰り返し、人生の歯車が狂っていくということがしばしば起こります。そのような状態が続く期間は人それぞれですが、間違った選択をすれば、その影響を心や身体に感じながら生きていかなければならないかもしれません。
私の友人に長年アルコールと薬物を乱用していた人がいます。神は、彼に驚くべき御業をなさいました。彼はアルコールと薬物中毒から解放され、もう25年、どちらにも手をつけていません。先日、25年間守られたお祝いをしました。彼は今や、繁盛する店の店主です。また、慈善団体で奉仕し、心優しく賢明なカウンセラーとして、人生の泥沼から這い出して更正しようとする人たちを支えています。夫思いの妻にも恵まれ、子どもたちはイエスを愛しています。
神は私たちを決して見捨てられません。たとえ間違った道を選んで悔やんでいたとしても、今をどう生きるかは、新しく選ぶことができます。後悔するだけで何も改めず、自分を傷つける生き方を続けることもできますが、「いなご、ばったの食い尽くした年々を償おう」(ヨエ2:25)と言われる聖書の神を信じて、キリストにすがることもできます。悔い改めて、神の癒しの力と解放の力を求めるならば、神はあわれんでくださいます。
過去の過ちが原因で今ある現実を帳消しにできない、というのは事実かもしれません。しかし、神はご自分を信頼する人たちに、ご自分の栄光を現す素晴らしい未来をくださいます。私たちは、それを確信することができます。
単純にしよう
アメリカ合衆国第4代大統領ジェームズ・マディソンは、この国の憲法の起草に尽力しました。彼は、「読めないほど膨大であったり、ごちゃごちゃしていて理解しづらい」法律を作ってはいけないと警告しました。私は役所に提出する記入用紙を読みながら、お役人たちはマディソン大統領の言葉にもう少しきちんと耳を傾けてほしいと思いました。
福音を人に伝えるとき、ことを必要以上に複雑化してしまうことがあります。うれしいことに聖書は、救いの良き知らせを明瞭で平易なことばで伝えています。イエスは、学識あるパリサイ人のニコデモに、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と語られました(ヨハ3:16)。また後に、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とも言われました(14:6)。使徒パウロは、どうしたら救われるのか、と尋ねたピリピの牢獄の看守に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と端的に語りました(使16:31)。
神の麗しいラブストーリーは単純です。神は、私たちを罪と死から救い出すために、ご自分のひとり子を遣わされました。子どもでさえ理解できる、素晴らしい話です。
イエスのチーム
人気のファストファッションの販売員はモデルのようなもので、店に飾ってあるのと同じような服を着ています。これはブランド戦略のひとつで、その背後にある考え方は、あの人たちのように見られたいと思って客は服を買う、というものです。
消費志向の社会にいると、私たちは物を売る人たちによって、見た目が良ければみんなに好いてもらえると信じ込まされています。そして、好感度を金で買おうと誘惑されるのです。それどころか、この世の人たちの目に自分の外見が魅力的に見えるなら、彼らをキリストの救いに導くことができるのではないかと思うことすらあります。
しかし聖書は、神にとって真に重要なことは何かを明らかにしています。それは、私たちの内面がキリストに似せられていくことです。ある意味で、イエスは私たちの「ブランド」です。というのは、私たちは神のかたちに少しずつ形づくられているからです(ロマ8:29)。私たちがキリストの品性を身に着けるなら、人はキリストに魅力を感じて引き寄せられてくるでしょう。それはつまり、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」(コロ3:12)であり、何にもまして「愛」(14節)なのです。
私たちは、自分のイメージを守ったり高めたりするのではなく、神のイメージを映して守らなくてはなりません。そしてそれは、キリストを通して私たちの内に完成させられます。
小さな活字
ミッシー・サリバンはウォールストリートジャーナル紙に投稿して次のように指摘しました。製品に同封されている同意書、保証書、免責条項の多くは、ほとんどが読めません。わざと小さな活字にして、製品を購入しようとする客に読む意欲を失わせています。そのために、多くの人はほとんど読まずにサインします。大学でグラフィック・コミュニケーションを教えている教授は、新たに購入したスマートフォンに付いてきた32ページに及ぶユーザー同意書を指して、「あの会社は、これを読んでほしくないのだ」と言いました。
神はこれとは正反対です。神は常に分かりやすくて説得力のある方法で、ご自分の民にみこころを伝えようとされます。私たちを混乱させたり、だましたりしようとは決してなさいません。モーセは約束の地に入ろうとするイスラエルの民に語りかけました。「…私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものではない。…私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ」(申30:11、19、20)。
神は私たちにご自身のご計画と目的を明快に理解してほしいと願っておられます。そうして、神を愛し、御声に聞き従い、神にすがりついてほしいと願っておられます。なぜなら神は「あなたのいのち」であるからです。これは実に分かりやすい話です。