靴ひもを結ぶ
ひとりの行動がグループ全体の運命を左右することがあります。ジャーナリストのセバスチャン・ユンガーは、従軍記者として部隊に同行取材をしたとき、そのことを認識したといいます。ひとりの兵士が、靴ひもが解けて地面を引きずっている、と叱り飛ばされました。それは見た目にだらしないからではありません。靴ひもが解けていることで、部隊全体を危険にさらすかもしれないからです。そんな格好で決定的な瞬間に転ばないと、どうして言えるでしょう。ユンガーは、これは自分のことだけではすまないのだと気づきました。
旧約聖書のアカンの話は、罪の影響は決して個人にとどまらないことを教えています。エリコの戦いで大勝利を収めた後、攻め取った町と戦利品をどうすべきか、神はヨシュアを通してはっきりと指示されました(ヨシ6:18)。人々は汚れたものから身をさけ、銀や金はすべて「主の宝物倉」に持ち込まなければなりませんでした(18-19節)。しかし、その命令は守られませんでした(7:1)。けれども、イスラエルの民全員が罪を犯したのではありません。たったひとり、アカンという人物だけが罪を犯したのです。ところが、彼の行為のために、すべてのイスラエル人が影響を受け、神の御名がはずかしめられました。
私たちクリスチャンは互いに結び合わされた関係で、各々の行為は、キリストのからだ全体に波及し、また、神の御名がたたえられるか否かを左右します。「靴ひも」はしっかり結びましょう。そうすれば、個人として、またキリストのからだ全体として、神に栄誉をもたらすことができます。その栄誉は、神が受けるべきものなのですから。
チューリップデー
世界にはチューリップデーという祝日を設けて、春の訪れを喜ぶ国々があります。チューリップといえばオランダだと思いがちですが、商業用の栽培は中近東で始まり、今日では世界中に広がりました。現在、推定で109種類ぐらいのチューリップが、世界各地の公園や街路、家々の庭を飾っています。
去年の秋、私もチューリップの球根を植えました。数ヶ月後、鮮やかな色の花が咲き、春の訪れを告げてくれました。それはまた、やがて夏がやって来ることの予告です。夏がくれば、多種多様の花が咲き乱れ、私たちの目を楽しませると教えてくれているのです。
私にとって花は、神の恵みを再認識させてくれる素晴らしいものです。山上の説教でイエスは語られました。「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。…しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。…神は…ましてあなたがたによくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」(マタ6:28-30)。主イエスは、野のゆりを例にとって、天の父が養ってくださることを教えられたのです。
チューリップは冬の終わりと春の始まりを知らせてくれますが、それだけではありません。野のゆりと同じように、衣食住の必要に応えてくださるお方を指し示してくれます。
応援したい
私は少年野球チームの監督をしていますが、初めの試合で顔面にデッドボールを受けた選手がいました。幸いけがは無かったのですが、当然のことながら心理的なダメージを受け、ボールを怖がるようになりました。毎試合、勇気を奮い起こしてバッターボックスに入るのですが、全く打てません。この状態はシーズンの終わりまで続きました。
シーズン最終戦。私たちのチームは大差で負けていて、意気消沈していました。そんなとき、あの選手が打席に入りました。カ~ン!鋭いヒットです。みんなびっくりして、選手たちは大騒ぎ。彼の両親も、他の選手の親たちも大声援を送りました。まだ大差で負けていたのですが、監督も飛び上がって喜びました。みんなこの少年を愛し、応援していたからです。
神も同じです。私たちを応援しておられます。私たちを深く愛し、神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」(エペ3:18-19)と願っておられます。
神は自分たちが失敗しないかと見張っていて、しくじると罰する厳しい存在だと考えている人がいます。そのような人たちに神の深い愛を伝えられるのは何という特権でしょう。神はご自分のひとり子を世に遣わされ、その御子を世の人の罪の贖いとして、十字架にはりつけにされました。それほどまでに私たちを愛し、応援しておられます。このことが分かったとき、人々はどれほど嬉しく思うでしょう。
パパ、心配しないで
昨年の夏、私たち夫婦は小児ガン撲滅の研究基金に寄付するために、自宅の庭を開放してコンサートを催しました。ところが当日の天気予報は雨でした。そこで私たちは、コンサート開始のたった数時間前、100名を超える参加者一人ひとりに電話をして、会場を変更すると伝えました。私たち家族や親しい友だちは、会場飾りや機材、食べ物などを我が家から教会の体育館に急いで移動しようと働きました。そのとき、娘のロージが夫のところに駆け寄って抱きしめると、「パパ、心配しなくていいわよ。私たちがついてるから」と言いました。子どもや孫たちを代表して励ましてくれたのです。
そのことばを聞いて、私たち夫婦は慰められました。彼らが「私の目はあなたの目。私の手はあなたの手。とりこぼしややり忘れがあったら、私がすくい上げるから心配ご無用」と言ってくれていると分かり、自分たちがひとりでないことを再確認したからです。
イスラエルの民が奴隷となっていたエジプトから逃げ出したとき、パロは戦車と騎兵を送って追跡しました(出14:17)。しかし、「神の使いは…雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち」ました(19節)。神はこうしてひと晩中彼らを守られたのです。翌日、神は紅海の水を左右に分けられ、彼らはその中を安全に渡っていきました。
神は私たちにも、心配するなと言われます。聖書は「神が私たちの味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ロマ8:31)と語っています。
イヌワシ
息子のマークと一緒にワイオミング州のクライド・ピーターソン牧場を出て、ミシガン州の自宅に戻る途中のことです。はるか向こうの険しい渓谷の淵に立つ木に、一羽の大きな鳥が止まっていました。近づいていくと、その鳥はイヌワシでした。そのイヌワシは、木から飛び立つと渓谷の上を滑空しました。拡げた大きな羽が、朝日に映えて金色に輝き揺らめいていました。息を呑むような壮麗さでした。私たちはその勇壮な姿を目の当たりにし、神の偉大な創造の力に畏怖の念をいだくと同時に、このような体験をさせていただけたのは何という光栄だろうと思いました。
神の被造物は、神の奇しいみわざを見させてくれます(詩145:5)。静まってこのみわざを思うなら、私たちは被造物に映し出される神の品性に感動するでしょう。神を畏れる気持ちがわき起こるに違いありません。
イヌワシの姿は、全能の神の素晴らしい創造の物語を教えてくれました。軽やかに飛びながらさえずる小鳥たちや、戯れて跳ね回る鹿の親子、寄せては返す波、繊細で可愛い千日紅や矢車菊なども神の被造物です。全く思いがけないときや、人里離れた場所でも、神はご自分の栄光を輝かせて、私たちにご自分を現してくださいます。このように、創造の神秘にはからずも巡り合ったなら、それは「神の奇しいわざに思いを巡らす」(5節)絶好のチャンスです。
常に準備を
帰省していた息子が、ある朝私の書斎に来て「何をしているの」と尋ねたので、「日曜学校の準備をしているんだ」と答えました。そのときふと、書斎にいるときはいつも何かの準備をしていることに気づきました。私は、神が福音のために私を用いてくださっていることを感謝していますが、常に他人のために準備を整えておかなければならないのは、それなりのストレスがあります。私には大学の授業や教会のメッセージ、さまざまな提出書類の準備があるので、優先順序を正しく整えるのは容易ではありません。
そんなこんなで、準備について聖書が何か語っていないだろうかと興味をそそられ、調べてみました。すると、私たちは「常に準備をしておくように」と命じられていました。神に心をささげた人とは、いつでも神に用いられるように準備している人のことです(Ⅰサム7:3)。私たちには、よいわざを行う準備(Ⅱ テモ2:21)や霊的な真理を攻撃から守る準備(Ⅰペテ3:15)が必要です。また使徒パウロは、計画を立てて献金する準備をしなさいと教えています(Ⅱ コリ9:5)。
これは始まりにすぎません。神に喜んでいただく人生とは、知性や霊性の準備を怠らず、肉体の健康にも配慮した生き方です。しかし、だからといってストレスを感じる必要はありません。なぜなら、神が御自身の力で、私たちを導いてくださるからです。
神に導かれて準備しましょう。そして、神に仕え、神をあがめ、人々にイエスを伝えていきましょう。
みことばを食べる
欽定訳聖書の翻訳で有名なジェームズ王は、この聖書が印刷された時期に、公式祈祷文をも編纂(へんさん)するように命じました。この祈祷文は今日でもとりなしの祈りを導いたり、礼拝の司式をする文書として用いられています。ここには礼拝者が聖書のみことばを内在化させる助けになる祈りが記されています。「祝福されたる主。聖なるみことばを記させて、私たちに学ばせてくださるお方。どうか私たちを助けてください。わたしたちが、みことばを聞き、読み、心に刻み、学び、消化することができますように。しっかり頑張れますように。そして主のきよいみことばによって、永遠のいのちを授かる祝福された望みをしっかりと抱きしめることができますように」と書かれています。
昔、預言者エレミヤも同じような祈りをしました。みことばによって心に栄養を与えてくださいと、次のように祈ったのです。「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです」(エレ15:16)。私たちは、聖書のみことばを「読み、心を込めて学び、深く味わって魂の養いと」することで、自分のものにしていきます。
みことばを自分のものとして適用できるよう、今日祈りましょう。みことばのミルクや肉をしっかりいただく時間をとりましょう(ヘブ5:12)。心を静めて向き合えば、神は聖書を通して、ご自身について教えてくださいます。
モンマのルール
モンマ・チャーリーという素晴らしい女性に会いました。彼女は裁判所の判断で10人以上の里子を託され、彼らを育ててきました。彼らに安心、躾、そして愛のある家庭を与えてきたのです。彼女は、新しい子どもが来るとまず「モンマのルール」を説明します。それは、彼女の家の子としてやって良いことと悪いことの決まり、そして、その子にあてがわれる家の手伝いです。確かに、この忙しい家にはみんなの手伝いが必要です。しかし同時に、小さいときからろくに躾られていない子どもたちにとって、家の手伝いは責任ある行動について学ぶよい機会です。
「モンマのルール」は楽しい暮らしを奪うものだと感じて、「え~!うそ!!」という反応をする子もいます。しかし、モンマの考えが正しいのです。これらの規範があってこそ秩序ある家庭生活が営まれ、子どもたちは、家庭の安らぎと楽しさを体験できます。
同じように、聖書に記されている神の規範は、人生の楽しみを邪魔するものだという人がいます。しかし、やって良いことと悪いことを神が定められたのは、悪に引き寄せられる傾向から人を守り、ご自分との健全な関係が育っていくように人を導くためです。
パウロはエペソ人への手紙4章で、どのように生きるべきかという模範を示しています。神の教えや命令に従って生きるならば、私たちは守られ、永遠に続く本物の喜びを体験するでしょう。
祈ってください
私たちのバイブルスタディのグループは、あるとき帰国中の宣教師を招いて話をしてもらいました。親族や友人に別れを告げ、身の回りの物をまとめて遠い国に引越すとはどのようなものか、その人は語ってくれました。家族を伴って任地に到着すると、出迎えたのは交通ルールは皆無と思われる危険な道路と、麻薬売買が大盛況という現実でした。言葉の壁は、孤独の苦しみをもたらしました。彼女たち家族は4種類の伝染病に感染しました。長女は、危険な吹き抜けの手すりから落ちて、あやうく命を落とすところでした。私たちは、この家族のために祈っていかなければならないと思いました。
使徒パウロもまた、危険と困難に遭遇した宣教師です。彼は投獄されたり、遭難したり、鞭打たれたりしました。ですから、祈ってほしいと手紙で嘆願しているのは驚くに値しません。彼は、テサロニケのクリスチャンに「主のみことばが…早く広まり、またあがめられますように」(Ⅱテサ3:1)、「ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように」(2節)祈ってほしいと頼んでいます。また、「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」(エペ6:19)祈ってほしいと、別の手紙には書かれています。
あなたは、神の超自然的な介入が必要な宣教師がいることを知っていますか。パウロの「兄弟たちよ、私たちのために祈ってください」(Ⅱテサ3:1)という訴えを思い出しましょう。そして、力ある神の御前に、宣教師のためのとりなしの祈りをささげましょう。