木々が目覚めるとき
春が来るという望みが、寒くて雪の多い冬のあいだ、私たちミシガン州の住民の心を支えます。そして5月になると、その忍耐が報われます。月初には裸だった大きな枝が、月末には、緑の葉の茂った枝になります。日々の変化は小さくて気づかないのに、我が家の庭の木々は、灰色から緑になっていました。
最終章
推理小説を読むときは、まず最後の章を読むという友だちがいます。「不安にならずに小説を読むため」だそうです。クリスチャンも同じです。私たちは物語の結末を知っているので、混沌のただ中にあっても平安の中心になることができます。災難に遭遇しても、落ち着くことができます。
終わり?
世のすべてのものには終わりがある、というのは、時として辛いことかもしれません。おもしろい本を読んでいると、終わってほしくないと思います。もうすこし長ければよかったのにと、映画を見終わって思うこともあります。
最後から読む
本の最初を読まずに、結末を読んでしまうことが時々あります。そして、登場人物の中で誰が生き残り、誰が死んでしまうのかが分かり、結末を知ります。その後、私は心安らかにじっくりと、物語の筋や登場人物の有り様を味わったり、楽しんだりするのです。
永遠についての視力
先月、目の検診で、遠くがよく見えるようになったと言われました。それは良かったと思ったのですが、友人には「加齢すると遠くが見えやすくなるけれど、近くが見え辛くなるのよね」と言われてしまいました。
解決済み
私はサッカーを見るのが大好きで、イングランド・プレミアチームのリバプール(愛称は「レッズ」)のファンです。ですから、レッズの試合はハラハラ、ドキドキしながら見ています。ひとつのゴール、ひとつのミスプレーが勝敗を左右するので、観戦中は興奮しています。このスリルがたまらないのです。ところが先日、レッズの試合の録画を見ました。何と平安な心で、それを見られたことでしょう。すでに結果が分かっているのですから、リラックスして選手の動きを見て楽しむことができました。
人生は、スポーツの試合の生中継を見るようなものです。将来のことは分かりません。ショックなことや、思いがけないこと、いらいらしたり、不安に感じることがあります。なぜなら、私たちには結末が見えないからです。ところが、クリスチャンには慰めが与えられています。この世の人生で起こる多くの事柄の結末は分かっていませんが、永遠という最終的な結末は、イエス・キリストの御業によってすでに決まっているからです。
使徒ヨハネは「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」と述べています(Ⅰヨハ5:13)。人生には思いがけないことが起こるかも知れませんが、私たちにはキリストの御業による平安があります。私たちの永遠という最終的な結末は、キリストによってすでに決まっています。
死を考えることの力強さ
新年の計画や抱負について考えるとき、敬虔な先人たちのアドバイスがあります。それは、考えたくない事実、つまり、自分の死について考えてみなさいというものです。
未来に投資する
◆ イザヤ書56-58
◆ Ⅱテサロニケ2
ホール・イン・ワンを決めて100万ドル(約8千万円)を獲得したとき、ジェイソン・ボーンはまだ大学生でした。このような賞金を浪費する人もありますが、ジェイソンは違いました。彼はプロゴルファーを目指していたので、これを自分が腕を磨く間の生活費とトレーニング費に充てたのです。この賞金は、ジェイソンの未来への投資という形で使われ、2005年度PGAツアーのB.C.オープン優勝という結果を出しました。今を楽しむのではなく、未来に投資するという彼の決断は正しかったのです。