喜び
私は年齢を重ねていくことを意識するようになりました。今、人生の「冬」の季節に向かって足早に進んでいます。まだ「老い」の領域に達してはいませんが、時の流れがあまりに速く、戸惑うことがあります。
そんな私を支えるのは喜びです。今日という日は主にいただいた新しい日です。私は詩篇の作者とともに「主に感謝するのは、良いことです。…朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表すことは」(詩92:1-2)と語ります。
私の人生にも数々の闘いがあり、周りの人の痛みや困難に押し潰されそうになることもあります。しかし私は、詩篇の作者とともに、主の御手のわざを、喜び歌います(詩92:4)。私は、家族、友だち、満足な仕事という祝福をいただいていることに喜んでいます。神の創造の不思議と神の霊感によるみことばがあるので喜びます。イエスに愛され罪をあがなわれたので喜びます。また、神が聖霊をくださったので喜びます。聖霊は真の喜びの源です(ロマ15:13)。主がおられるので、信じる人は「なつめやしの木のように栄え、…年老いてもなお、実を実らせ」ます(詩92:12-14)。
どんな実が実るのでしょう。私たちは年齢や状況に関わらず、自分の生き方や発言によって、神の愛の模範になることができます。神を深く知り、神のために生き、神を語る者とされる人生には喜びがあります。
普段の生活
食料品をトランクに積み込み、ゆっくり車を出そうとすると、突然、男の人が前を横切りました。こちらに全く気づいていません。とっさにブレーキを踏み、止まりました。その人はびっくりして顔を上げ、私と視線が合いました。むっとするか、「大丈夫よ」と笑顔を向けるか、それは私の選択です。私は笑顔を選びました。彼の顔に安堵と感謝の表情が浮かびました。
あの有名な微笑み
パリのルーブル美術館を夫婦で訪れた日、11歳の孫に電話して、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を見たと話しました。すると彼女は「笑顔だった?」と尋ねました。それは謎なのです。ダ・ヴィンチがこの油絵を描いてから600年以上経ちますが、この女性が微笑んでいるのかいないのか、それは未だに不明です。私たちはこの作品の美しさに魅了されますが、モナ・リザの表情を理解することはできません。
悲しみから喜びへ
ケリーの出産は異常分娩になりました。しかし大変な難産の末、無事に産まれた息子を抱くと、彼女は痛みを忘れてしまいました。苦しみが喜びに変わったのです。
バイオレットと歌う
バイオレットは高齢でジャマイカの障害者施設で暮らしています。 10代の若者たちが見舞うと、真昼のむし暑い部屋の中、文句も言わず、満面の笑みを浮かべて歌いました。「走って、跳ねて、飛んで、私は、主をほめたたえます!」バイオレットには両足がありません。しかし、まるで走っているかのように腕を前後に振りながら歌い、周りにいた人は涙を浮かべました。バイオレットは「イエスさまは私を愛しておられて、天国へ行ったら走る足をくださるのよ」と言いました。
喜びときめく
片づけについて書いた本が、世界で200万部も売れました。著者、近藤麻理恵のメッセージは、家の中が片付かなくて気が滅入るというなら、不用品の処分を手伝いますということです。彼女はモノを一つひとつ手にとり、「触ったときに、ときめくか」と尋ねます。そして、イエスなら残し、ノーなら捨てるのだそうです。
喜びを広める
ジャネットは外国の学校で英語を教えていましたが、職場の雰囲気は重苦しいものでした。各々が黙々と自分の仕事をして、互いに手伝ったり、励ましたりもせず、誰も幸せそうに見えません。しかしジャネットは、神が自分にしてくださった全てのことに感謝しているので、その思いが行動に表れます。彼女は、いつも笑顔で人なつっこく、面倒がらずに他人を助けます。そして、鼻歌を歌ったり、賛美歌を口ずさんだりするのです。そんなジャネットに感化され、学校の雰囲気が少しずつ変わってきました。笑顔の人が増え、助け合いも増えました。教育委員会の人がやって来て、何が変わったのかと尋ねると、校長はクリスチャンではないのに、「イエスが喜びを運んで来ました」と答えました。ジャネットはイエスの愛で満ちていて、それがみんなの上にこぼれ落ちたのです。
喜び溢れる心
シンガポールのチャンギ空港の搭乗ゲートで、機内へ案内されるのを待っていると、子どもづれの夫婦に気づきました。彼らは混雑する待合室で座席を探していました。すると突然、子どもが大きな声で「もろびとこぞりて」を歌い出しました。彼は6歳ぐらいでしたが、感心なことに、歌詞を全部覚えていました。
幸せバイキング
ファミリーレストランのテレビ広告で「当店で幸せバイキングを!」と宣伝しているのを見ました。フライドポテトやパスタやグラタン、サラダやケーキをファミリーレストランで食べるだけで幸せになれるなら、何と手軽なことでしょう。しかし残念ながら、そのように約束できるレストランはひとつもありません。
幸せをつかむことはなかなかできないと、人生が教えてくれます。もちろん、食べ物や他の物が手に入ることも幸せには違いありませんが、いずれはそれが当たり前になって、次の「幸せ探し」が始まります。それはおそらく、手に入れたものが、心の奥底から必要なものではなかったからでしょう。幸せになろうと、ちょっとした気晴らしや娯楽を求めて、それが手に入ったところで「助けて欲しい」とか「希望がほしい」という心の叫びには応えてくれません。それゆえ、詩篇の作者は「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は」と語り、幸せになる最良の方法を示してくれます(詩146:5)。
主のうちに幸せを求めるなら、あなたは大丈夫です。主と主の計らいに自らを委ねた時にだけ、私たちは探し求めていた幸せを見つけるからです。助けや希望は、主を信頼して初めて手にすることができます。