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心を守る

成人を対象にした聖書勉強会で長い間教えていましたが、生徒の質問に答えるときは、じっくりと聖書を考察するように努めていました。その後、40歳で神学大学院で教えるようになりましたが、あるとき、あの勉強会にいた女性の真剣な質問に、ひどい返答をしたことに気づきました。私のせいで2年間も悩んでいるに違いないと思うと、居ても立ってもいられなくなり、急いで帰宅すると電話をかけました。

みことばを食べる

欽定訳聖書の翻訳で有名なジェームズ王は、この聖書が印刷された時期に、公式祈祷文をも編纂(へんさん)するように命じました。この祈祷文は今日でもとりなしの祈りを導いたり、礼拝の司式をする文書として用いられています。ここには礼拝者が聖書のみことばを内在化させる助けになる祈りが記されています。「祝福されたる主。聖なるみことばを記させて、私たちに学ばせてくださるお方。どうか私たちを助けてください。わたしたちが、みことばを聞き、読み、心に刻み、学び、消化することができますように。しっかり頑張れますように。そして主のきよいみことばによって、永遠のいのちを授かる祝福された望みをしっかりと抱きしめることができますように」と書かれています。

昔、預言者エレミヤも同じような祈りをしました。みことばによって心に栄養を与えてくださいと、次のように祈ったのです。「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです」(エレ15:16)。私たちは、聖書のみことばを「読み、心を込めて学び、深く味わって魂の養いと」することで、自分のものにしていきます。

みことばを自分のものとして適用できるよう、今日祈りましょう。みことばのミルクや肉をしっかりいただく時間をとりましょう(ヘブ5:12)。心を静めて向き合えば、神は聖書を通して、ご自身について教えてくださいます。

モンマのルール

モンマ・チャーリーという素晴らしい女性に会いました。彼女は裁判所の判断で10人以上の里子を託され、彼らを育ててきました。彼らに安心、躾、そして愛のある家庭を与えてきたのです。彼女は、新しい子どもが来るとまず「モンマのルール」を説明します。それは、彼女の家の子としてやって良いことと悪いことの決まり、そして、その子にあてがわれる家の手伝いです。確かに、この忙しい家にはみんなの手伝いが必要です。しかし同時に、小さいときからろくに躾られていない子どもたちにとって、家の手伝いは責任ある行動について学ぶよい機会です。

「モンマのルール」は楽しい暮らしを奪うものだと感じて、「え~!うそ!!」という反応をする子もいます。しかし、モンマの考えが正しいのです。これらの規範があってこそ秩序ある家庭生活が営まれ、子どもたちは、家庭の安らぎと楽しさを体験できます。

同じように、聖書に記されている神の規範は、人生の楽しみを邪魔するものだという人がいます。しかし、やって良いことと悪いことを神が定められたのは、悪に引き寄せられる傾向から人を守り、ご自分との健全な関係が育っていくように人を導くためです。

パウロはエペソ人への手紙4章で、どのように生きるべきかという模範を示しています。神の教えや命令に従って生きるならば、私たちは守られ、永遠に続く本物の喜びを体験するでしょう。

ああ、見えてきた

デボラ・ケンドリックは、ブロードウェイ・ミュージカルの大ファンですが、目が不自由なのでステージ設定や登場人物を理解するのに苦労します。しかし最近、Dスクリプティブという最新技術を使ったミュージカルを見ました。これは、小型FM受信機を通してステージの視覚的要素の説明が聞けるというものです。録音ナレーションは照明や音響設備に接続されていて、ショーの進行に沿って、ステージのセットや出演者の動きを知らせてくれます。デボラはその経験について、コロンバス・デスパッチ新聞に次のように投稿しました。「先週、ニューヨークのショーを『見た』かと聞かれたら、『しっかり見ましたよ』と心から言うことができます。」

彼女の体験を読んで、これは聖霊の働きについて説明する良い例だと思いました。イエスは、十字架にかかる直前に「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」とおっしゃいました(ヨハ14:26)。聖霊は、私たちが神のみことばを理解しようとするとき、助けてくださいます。

聖書を開いて読んだり、学んだりするとき、真理の御霊が来て、すべての真理に私たちを導き入れてくれます(ヨハ16:13)。私たちは自分だけでは見えませんが、神の聖霊に導かれると見えるようになります。

小さな活字

ミッシー・サリバンはウォールストリートジャーナル紙に投稿して次のように指摘しました。製品に同封されている同意書、保証書、免責条項の多くは、ほとんどが読めません。わざと小さな活字にして、製品を購入しようとする客に読む意欲を失わせています。そのために、多くの人はほとんど読まずにサインします。大学でグラフィック・コミュニケーションを教えている教授は、新たに購入したスマートフォンに付いてきた32ページに及ぶユーザー同意書を指して、「あの会社は、これを読んでほしくないのだ」と言いました。

神はこれとは正反対です。神は常に分かりやすくて説得力のある方法で、ご自分の民にみこころを伝えようとされます。私たちを混乱させたり、だましたりしようとは決してなさいません。モーセは約束の地に入ろうとするイスラエルの民に語りかけました。「…私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものではない。…私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ」(申30:11、19、20)。

神は私たちにご自身のご計画と目的を明快に理解してほしいと願っておられます。そうして、神を愛し、御声に聞き従い、神にすがりついてほしいと願っておられます。なぜなら神は「あなたのいのち」であるからです。これは実に分かりやすい話です。

文脈から離れて

無造作に投げやりな言葉を言い出した人に、友だちが励ましたり、アドバイスをしたりしました。ところが、その人は、単に面白がってある歌の歌詞を文脈から離れて口にしていただけでした。親身になって助けようとした人たちは、時間を無駄にしたのです。アドバイスも不必要でした。誤解を生む発言をした人が引き起こした問題は、今回のところ大して深刻ではありませんでしたが、人騒がせな言動につき合っている間に、もっと大切なことをしたり、本当に助けが必要な人に手を差し伸べることができたかもしれません。

人の関心を引くために文脈を無視した引用をしたり、議論に勝とうと屁理屈をこねたりする人がいます。さらに悪いのは、力関係で優位に立とうと、真理をゆがめる人です。その人たちは他人の人生のみならず、たましいにまで危害を及ぼします。

言葉を巧みに操って、相手を自分の思い通りに行動させようとする人、さらには、聖書のみことばを文脈を無視して用い、不正なことを正しいと相手に信じさせて行わせようとする人がいます。このような行為から身を守る手段は、ひとつしかありません。それは聖書を知ることです。私たちは、神が聖書の中で何を教えておられるか、きちんと知らなくてはなりません。イエスは、真理によって誘惑を退けることができました(ルカ4章)。私たちにも同じ真理が与えられています。神は聖書と聖霊をくださいました。これらが、私たちを導きます。私たちがだまされたり、道を逸脱させられたりしないように守ってくれます。

大いなることを期待せよ

ウイリアム・ケアリは平凡な男性でしたが、その信仰は非凡でした。18世紀の労働者階級に生まれ、靴作りを生業(なりわい)にしていましたが、そのかたわら、神学書や未知の民族を発見した探検家の日記などを読んでいました。神は、これらの書物を用いられました。ケアリは世界に福音を伝えなければならないと思うようになったのです。彼は宣教師としてインドに赴き、福音伝道の働きを始めました。同時に、インドのいくつかの方言を習得して、聖書をそれらの言語に翻訳しました。ケアリの宣教にかける熱意は「神に大いなることを期待せよ。神のために大いなることを企てよ」という彼自身の言葉に表れています。ケアリは、自分の言葉どおりに生き、何千人という人々が彼の生き方に影響されて海外に福音を伝える宣教師になりました。

聖書は、神を信じることで驚異的な結果をもたらした多くの人々について語っています。へブル11章33節~34節は「…信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ」た人々の存在を伝えています。

歴史が下るにつれて、このような英雄の数は累積され増えていきます。その一員になる可能性は、私たちにもあります。神は何でもおできになり、誠実なお方ですから、私たちは大いなることを企て、大いなることを期待できるのです。

味わう

それぞれが忙しく走り回っている社会では、友だちとゆっくり食事をする機会はなかなかありません。アメリカでは、フルコース料理を楽しむ唯一の方法は全部をサンドイッチにすることだ、と言った人すらいるそうです。

バビロンで捕囚生活を送っていたイスラエル人の多くが、神殿と城壁を再建しにエルサレムに戻ってきました。その人々は、神がモーセを通してイスラエルに与えた律法の書を持ってくるよう祭司エズラに願い、その朗読に耳を傾けました(ネヘ8:1-3)。彼らは、神のみことばを何時間も聞き、レビ人たちがそれを解き明かしたので、「民は読まれたことを理解した」のです(8節)。

民は自分たちの至らなさを悟って泣きましたが、祭司エズラと総督ネヘミヤは、今は悲しむときではなく、喜ぶときだと言いました。ネヘミヤは、ごちそうを食べ、ぶどう酒を飲み、自分でごちそうが準備できない人にはごちそうをふるまってあげなさい、と言いました。「悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ」(10節)と言いました。「こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである」と聖書は記しています(12節)。

神が準備してくださった霊のごちそうは、みことばです。このごちそうをいただくのは、非常に嬉しいものです。時間をかけてゆっくり味わいましょう。

十分に整えられる

医療用メスの開発者でスイス人のカール・エルズナーは、何年もかけて軍仕様のナイフを制作しました。19世紀のことです。このスイスアーミーナイフは、その鋭い切れ味と多機能性で今日でも多くの人に知られています。小刃、金属のこぎり、はさみ、ルーペ、缶切、ドライバー、定規、ボールペンなど、多彩なツールがセットされていて、野外でキャンプをする人たちに、「これがあれば大丈夫」と感じさせてくれるのです。

私たちクリスチャンにも、罪にまみれたこの世を正しく生き抜くために、「これがあれば大丈夫」と感じさせてくれる何かが必要です。そのために、神はご自身のみことばをくださいました。パウロはこう語っています。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモ3:16-17)。

「整えられ」ると訳されている単語は、「完全に適応させる」または「きちんと取り付ける」という意味です。聖書は次のようにして私たちを整えてくれます。第一に、「教義」という霊的真理が与えられます。次に、私たちの不完全な部分を示し「戒め」てくれます。さらに、私たちが罪を犯したとき、それを示して「正して」くれます。最後に、正しい人生を生きるために「指導」してくれます。

神のみことばほど価値あるツールはありません。みことばは、私たちが信仰者として歩み続け、霊的な成長を遂げるために不可欠なものです。