奉仕の賜物
ふと気づいたのですが、オートマチック車を運転するとき、ペダルを踏むのはいつも右足です。右足だけでアクセルとブレーキを操作し、その間、左足は何もせずじっとしています。これでは不公平なので、左と右の足を半分ずつ使い分けて運転しようと思ったならどうでしょう。こんなことは絶対にやってはいけません。
身体の部分には、そんな不公平があってよいのに、教会の中では皆が公平でなければならないと考えるのはどうでしょう。これが、ローマの初代教会が直面していた問題です。一部の人たちは、自分がある特定の奉仕(他の人はしていない)をしているということで、身の程知らずに思い上がっていました(ロマ12:3)。しかし、パウロは「すべての器官が同じ働きはしない」と書いています(4節)。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っています(6節)。神は他の人に仕えるために、その賜物をくださいました(6-13節)。私たちは人にではなく主に仕えているのですから、勤勉で霊に燃えつつ仕えるべきです(11節)。
ですから、あの人は〇〇をしているのに、私はそれができないとか、逆に、私ばかりが〇〇をして、あの人はしないなどと気にするのはやめましょう。そして、神があなたをどのように用いることができるかを考えましょう。今、神の国で、どのように用いていただけるかを考えるべきです。神は、御心のままに、あなたに賜物を与えられたのですから(3節)。
未使用のギア
初めて乗った自転車には、ギアはひとつだけでした。スピードが速くても遅くても、登り坂でも下りでも、同じギアだけです。次の自転車には、3つのギアがありました。平坦な道、上り坂、そして下り坂用です。3台目の自転車には10個のギアがついているので、いろいろな選択をすることができます。しかし、いくつもギアがあるからといって、全部のギアを毎回使うわけではありません。スタート時や上り坂に最適なギアがあり、加速したいときに使うギアがあり、ゆっくり走りたいときに使うギアもあります。ですから、ギアに関して言えることはこうです。すべてのギアが常に使用中なのではありません。あるギアは、今はいりません。しかし、今は不要だからといって、今後も不要だとは言えません。
私たちの霊の賜物や、奉仕に用いる技術についても同じことが言えます。以前は〇〇の賜物を用いてうまく仕えていたのに…と思うようなとき、自分はもう役に立たなくなったとか、ありがたいと思ってもらえない、などと考えてはいけません。今、使っている「ギア」を神に感謝しましょう。ひとつの賜物が今は必要とされていないからといって、それがずっと不要だとは限りません。
状況やニーズには常に変化が伴い、予測不能です。また、必要とされる霊の賜物はその折々に違ってきます。使徒パウロはテトスに「いつでも良いわざをする用意が」あるようにと勧めました(テト3:1 口語訳)。私たちも、そのようにしていましょう。
すばらしい足の指
◆ Ⅱ列王記17-18
◆ ヨハネ3:19-36
たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
―Ⅰコリント12:15
最近、不可解なスポーツの話を聞きました。こんなことに興じる人がいるとは、何とも不思議だと思います。それは「足の指相撲」です。毎年、イギリスで世界選手権が開催され、各国の人々が集まります。選手たちは素足になって、互いに向き合って地べたに座り、片方の足の親指同士を絡ませます。そして、腕相撲が相手の手を机に押さえつけるように、相手の足を床に押さえつけようとするのです。
神の名が記されている
◆ エゼキエル書45-46
◆ Ⅰヨハネ2
神はお造りになったすべてのものを見られた。……それは非常に良かった。―創世記1:31
湖畔にある友人の別荘には、何枚もの写真が飾られています。どの写真もこの家のデッキから撮った夕日ですが、はっとさせるほど美しく、四季折々の風情があります。ふたつとして同じ夕日はありません。その写真を見ていて、別の友人が言った言葉を思い出しました。夕日は、一日の終わりに記される、神の美しい署名だというのです。