確かな救い
イギリスを19世紀に治めたビクトリア女王が、あるとき、主日礼拝で大きく心を揺さぶられたそうです。礼拝の後、女王は司祭に、「この世の人生で永遠の確証を得ることはできますか」と尋ねました。ところが司祭は、答えることができません。一方、ジョン・タウンゼントという名の伝道者は、女王の質問を耳にし、よく祈った後、手紙を書きました。「恐れ多いことではございますが、この知らせを震える手で書いています。イエスが天に備えられた家で永遠に生きることの確証を今、得ることはできると存じます。女王陛下、どうかヨハネの福音書3章16節とローマ人への手紙10章9~10節をお読みいただきますよう、お願い申し上げます。」
2週間後、タウンゼントは手紙を受け取りました。そこには「記されていた聖書のみことばを、注意深く、祈り心で読みました。私は、キリストが私のために完成された御わざを信じます。そして、『わたしが行って、あなたがたに場所を備える』と仰せになったその家で、神の御恵みによって、あなたにお会いできると確信します。-ビクトリア」と書かれていました。
タウンゼントは、永遠のいのちの確証をこの世の人生の中で得ることができると確信していました(9節)。また、自分以外の人たちのことも心配していました。あなたの永遠の終着点について、ヨハネ3章16節とローマ10章9~10節は、どのような意味を持つでしょう。それについて、ぜひ考えてください。神は、自分の罪は赦されたという確信をあなたにあげたいと願っておられます。この世の生命が終わったなら、神と永遠に過ごすことができるのだという確信を、あなたに与えたいと願っておられるのです。
(Brent Hackett、RBCミニストリーズ カナダ ディレクター)
つづく
新約聖書の5番目に登場する「使徒の働き」は、イエスに任命された人たちのもとで、キリストの教会がどのように成長していったかの記録です。この書を「聖霊の働き」と名づけることができるという学者もいます。なぜなら、イエスに任命された人たちはさまざまな困難に直面するのですが、聖霊の力が、彼らを勇気づけていたからです。
イエスは天に上って行かれる直前、ご自分が選んだ人たちに対して、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と告げられました(使1:8)。このお言葉とともに、神の御業の物語の一章が終わり、新たな章が始まりました。神の御業の物語は今も継続中です。そして、私たちはその一部です。
「使徒の働き」には、ペテロ、ヨハネ、バルナバ、パウロ、ドルカス、ルデヤ、そのほか初代教会の時代に生きた大勢の忠実な証し人たちが描かれています。彼らは普通の人たちでした。神に頼って力をいただき、神のみことばを広め、神の愛を実践していきました。
この物語は、私たちによってつづいていきます。神を信じ、神に従い、イエスをみんなに知ってもらおうとする人たちの人生があるとき、神の贖いの物語に新しいページが加えられていきます。
神の力強い御腕
友人のジョアンの夢は、ピアニストになってソロの演奏家か伴奏者として各地を回ることでした。しかし、大学でピアノを学んでいたとき、右腕に腱鞘炎を患って、演奏家に必要な強い腕力を失ってしまいました。それで結局、音楽史と文学の学位を取って大学を卒業しました。
ジョアンはクリスチャンでしたが、ここ数年間は神に背を向けて、自分勝手な道を歩んでいました。大学を卒業後、さらに困難な状況に見舞われると、彼女は、神が自分を呼び戻そうとなさっていると感じました。そして、主のみもとに戻ったのです。
結局、彼女の腕は癒されて強くなり、演奏家として旅をするという夢は実現しました。彼女は、「私は今、自分のためにではなく神の栄光のために演奏しています。神が手を差し伸べてくださったおかげで、私の霊性と腕力が回復されました。ですから、神から賜った才能を用いて神に仕えることができるのです」と語っています。
神は「伸ばした腕」(出6:6)によって、イスラエル人をエジプトの苦役から救うと、モーセに約束されました。反抗を繰り返すイスラエル人がこの約束を疑ったにもかかわらず、ご自分の約束を守られました(14:30-31)。神の力強い御腕は、私たちに向かっても差し出されています。私たちの状況がどう展開しようと、神は信頼できるお方です。神の子どもたちのために、みこころを成されます。私たちは神の力強い御腕を頼りにすることができます。
悪かった
義理の息子とスポーツ観戦に行ったとき、試合だけではなく人間ウォッチングもすることになりました。人間の良い面と悪い面の両方を見せてくれた人がいたからです。その人はスタジアムで迷子になって、自分の席に帰れなくなっていました。それで立って辺りを見回していたのですが、それが私たちの視界をさえぎるような場所でした。座っていた人は試合が見えないので、「どいてくれないか。見えないじゃないか」と言いました。するとその迷子の男性は、「そりゃ気の毒だな」と皮肉たっぷりに答えたのです。そして、もう一度言われると、今度は怒気を含んだ声で同じ言葉を繰り返しました。しばらくすると、その男性はようやくあっちに行きましたが、驚いたことにすぐに戻ってきて、見えないと文句を言った男性に、「さっきは悪かったな。実は席が見つからなくてイライラしていたんだ」と言ったのです。ふたりは握手をして、この件は友好的に片付きました。
彼らのやり取りを見て、私は考えさせられました。日々の生活の中で、自分の思うとおりにならなくてイライラし、キリスト者として恥ずかしい言動をしたことがあるかもしれません。もしそうならば、私たちは失礼をした相手に謝る勇気をくださいと、神に願わなければなりません。イエスによると、そうするか否かで、私たちの礼拝が受け入れられるかどうかが決まるのです(マタ5:23-24)。
和解を優先事項にしているなら、私たちは、神に栄誉を帰しています。天の父との交わりを十分に楽しむことができるのは、和解した後のことです。
靴ひもを結ぶ
ひとりの行動がグループ全体の運命を左右することがあります。ジャーナリストのセバスチャン・ユンガーは、従軍記者として部隊に同行取材をしたとき、そのことを認識したといいます。ひとりの兵士が、靴ひもが解けて地面を引きずっている、と叱り飛ばされました。それは見た目にだらしないからではありません。靴ひもが解けていることで、部隊全体を危険にさらすかもしれないからです。そんな格好で決定的な瞬間に転ばないと、どうして言えるでしょう。ユンガーは、これは自分のことだけではすまないのだと気づきました。
旧約聖書のアカンの話は、罪の影響は決して個人にとどまらないことを教えています。エリコの戦いで大勝利を収めた後、攻め取った町と戦利品をどうすべきか、神はヨシュアを通してはっきりと指示されました(ヨシ6:18)。人々は汚れたものから身をさけ、銀や金はすべて「主の宝物倉」に持ち込まなければなりませんでした(18-19節)。しかし、その命令は守られませんでした(7:1)。けれども、イスラエルの民全員が罪を犯したのではありません。たったひとり、アカンという人物だけが罪を犯したのです。ところが、彼の行為のために、すべてのイスラエル人が影響を受け、神の御名がはずかしめられました。
私たちクリスチャンは互いに結び合わされた関係で、各々の行為は、キリストのからだ全体に波及し、また、神の御名がたたえられるか否かを左右します。「靴ひも」はしっかり結びましょう。そうすれば、個人として、またキリストのからだ全体として、神に栄誉をもたらすことができます。その栄誉は、神が受けるべきものなのですから。
チューリップデー
世界にはチューリップデーという祝日を設けて、春の訪れを喜ぶ国々があります。チューリップといえばオランダだと思いがちですが、商業用の栽培は中近東で始まり、今日では世界中に広がりました。現在、推定で109種類ぐらいのチューリップが、世界各地の公園や街路、家々の庭を飾っています。
去年の秋、私もチューリップの球根を植えました。数ヶ月後、鮮やかな色の花が咲き、春の訪れを告げてくれました。それはまた、やがて夏がやって来ることの予告です。夏がくれば、多種多様の花が咲き乱れ、私たちの目を楽しませると教えてくれているのです。
私にとって花は、神の恵みを再認識させてくれる素晴らしいものです。山上の説教でイエスは語られました。「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。…しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。…神は…ましてあなたがたによくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」(マタ6:28-30)。主イエスは、野のゆりを例にとって、天の父が養ってくださることを教えられたのです。
チューリップは冬の終わりと春の始まりを知らせてくれますが、それだけではありません。野のゆりと同じように、衣食住の必要に応えてくださるお方を指し示してくれます。
応援したい
私は少年野球チームの監督をしていますが、初めの試合で顔面にデッドボールを受けた選手がいました。幸いけがは無かったのですが、当然のことながら心理的なダメージを受け、ボールを怖がるようになりました。毎試合、勇気を奮い起こしてバッターボックスに入るのですが、全く打てません。この状態はシーズンの終わりまで続きました。
シーズン最終戦。私たちのチームは大差で負けていて、意気消沈していました。そんなとき、あの選手が打席に入りました。カ~ン!鋭いヒットです。みんなびっくりして、選手たちは大騒ぎ。彼の両親も、他の選手の親たちも大声援を送りました。まだ大差で負けていたのですが、監督も飛び上がって喜びました。みんなこの少年を愛し、応援していたからです。
神も同じです。私たちを応援しておられます。私たちを深く愛し、神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」(エペ3:18-19)と願っておられます。
神は自分たちが失敗しないかと見張っていて、しくじると罰する厳しい存在だと考えている人がいます。そのような人たちに神の深い愛を伝えられるのは何という特権でしょう。神はご自分のひとり子を世に遣わされ、その御子を世の人の罪の贖いとして、十字架にはりつけにされました。それほどまでに私たちを愛し、応援しておられます。このことが分かったとき、人々はどれほど嬉しく思うでしょう。
パパ、心配しないで
昨年の夏、私たち夫婦は小児ガン撲滅の研究基金に寄付するために、自宅の庭を開放してコンサートを催しました。ところが当日の天気予報は雨でした。そこで私たちは、コンサート開始のたった数時間前、100名を超える参加者一人ひとりに電話をして、会場を変更すると伝えました。私たち家族や親しい友だちは、会場飾りや機材、食べ物などを我が家から教会の体育館に急いで移動しようと働きました。そのとき、娘のロージが夫のところに駆け寄って抱きしめると、「パパ、心配しなくていいわよ。私たちがついてるから」と言いました。子どもや孫たちを代表して励ましてくれたのです。
そのことばを聞いて、私たち夫婦は慰められました。彼らが「私の目はあなたの目。私の手はあなたの手。とりこぼしややり忘れがあったら、私がすくい上げるから心配ご無用」と言ってくれていると分かり、自分たちがひとりでないことを再確認したからです。
イスラエルの民が奴隷となっていたエジプトから逃げ出したとき、パロは戦車と騎兵を送って追跡しました(出14:17)。しかし、「神の使いは…雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち」ました(19節)。神はこうしてひと晩中彼らを守られたのです。翌日、神は紅海の水を左右に分けられ、彼らはその中を安全に渡っていきました。
神は私たちにも、心配するなと言われます。聖書は「神が私たちの味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ロマ8:31)と語っています。
イヌワシ
息子のマークと一緒にワイオミング州のクライド・ピーターソン牧場を出て、ミシガン州の自宅に戻る途中のことです。はるか向こうの険しい渓谷の淵に立つ木に、一羽の大きな鳥が止まっていました。近づいていくと、その鳥はイヌワシでした。そのイヌワシは、木から飛び立つと渓谷の上を滑空しました。拡げた大きな羽が、朝日に映えて金色に輝き揺らめいていました。息を呑むような壮麗さでした。私たちはその勇壮な姿を目の当たりにし、神の偉大な創造の力に畏怖の念をいだくと同時に、このような体験をさせていただけたのは何という光栄だろうと思いました。
神の被造物は、神の奇しいみわざを見させてくれます(詩145:5)。静まってこのみわざを思うなら、私たちは被造物に映し出される神の品性に感動するでしょう。神を畏れる気持ちがわき起こるに違いありません。
イヌワシの姿は、全能の神の素晴らしい創造の物語を教えてくれました。軽やかに飛びながらさえずる小鳥たちや、戯れて跳ね回る鹿の親子、寄せては返す波、繊細で可愛い千日紅や矢車菊なども神の被造物です。全く思いがけないときや、人里離れた場所でも、神はご自分の栄光を輝かせて、私たちにご自分を現してくださいます。このように、創造の神秘にはからずも巡り合ったなら、それは「神の奇しいわざに思いを巡らす」(5節)絶好のチャンスです。