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教訓

夏のある日、高校の同窓会に出席すると、後ろから肩をたたく人がありました。私は、その女性の名札を見ながら、当時の記憶をたどりました。すると、小さく折りたたんだ紙が、私のロッカーにねじ込まれていた事件を思い出しました。その紙には、悪意に満ちた誹謗中傷の言葉が乱暴に書かれていました。私は深く傷つき、「なんて無神経な人なんだろう」と思ったものでした。青春の痛みがよみがえってきたように感じましたが、作り笑いを浮かべて彼女と適当に話をしました。

ところが彼女は、不遇な幼少時代や不幸な結婚生活について次々と話し出しました。その時ふと、「苦い根」(ヘブ12:15)という言葉が心をよぎりました。「ああ。そうなんだわ」と、私は思いました。長い間、この「苦い根」が私の心に張っていたのです。そして、私の心をがんじがらめにしていました。

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ12:21)という聖書のみことばが心に浮かびました。私たちは語り合い、ともに涙を流しました。ふたりとも過去の出来事には触れませんでした。

その日の午後、私は思い知らされました。心の中にぎゅっと押し込めていた苦々しい気持ちを解き放って、神に委ねなければならないと。神は私に赦すことを教えてくださいました。

味わう

それぞれが忙しく走り回っている社会では、友だちとゆっくり食事をする機会はなかなかありません。アメリカでは、フルコース料理を楽しむ唯一の方法は全部をサンドイッチにすることだ、と言った人すらいるそうです。

バビロンで捕囚生活を送っていたイスラエル人の多くが、神殿と城壁を再建しにエルサレムに戻ってきました。その人々は、神がモーセを通してイスラエルに与えた律法の書を持ってくるよう祭司エズラに願い、その朗読に耳を傾けました(ネヘ8:1-3)。彼らは、神のみことばを何時間も聞き、レビ人たちがそれを解き明かしたので、「民は読まれたことを理解した」のです(8節)。

民は自分たちの至らなさを悟って泣きましたが、祭司エズラと総督ネヘミヤは、今は悲しむときではなく、喜ぶときだと言いました。ネヘミヤは、ごちそうを食べ、ぶどう酒を飲み、自分でごちそうが準備できない人にはごちそうをふるまってあげなさい、と言いました。「悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ」(10節)と言いました。「こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである」と聖書は記しています(12節)。

神が準備してくださった霊のごちそうは、みことばです。このごちそうをいただくのは、非常に嬉しいものです。時間をかけてゆっくり味わいましょう。

新しい目

最近、キリストを信じたという大学生に会いました。彼女は、救われて最初に起こった変化について、次のように語りました。
「キリストの救いを信じたとき、神が天から降りて来られて私の目をつけ替えてくれたように感じました。霊の真理が理解できるようになったのです。」

救い主と出会って霊の目を得たと語るこの女子大生の話は感動的です。しかし、彼女の経験はめずらしいものではありません。すべての人は、キリストを救い主と信じたときに、霊の目を授かります。けれどもときどき、霊の目に霧がかかってはっきり見えなくなることがあります。それが起こるのは、私たちが自分とキリストとの関係をぞんざいに扱ったときです。

使徒パウロは、「心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」を理解できるようにと、エペソのクリスチャンのために祈りました(エペ1:18-19)。彼は、クリスチャンが心の目を開かれることを熱心に祈り求めたのです。このことから分かるのは、キリストにあって神が成してくださったこと、また今後もしてくださることを十分に理解し感謝することは、私たちにとって非常に重要だという真理です。キリストを信じる人には、霊的な真理を見定める新しい目が与えられています。神としっかり向き合うならば、キリストにあって与えてくださったすべてのものをその新しい目で見ることができるように、神が助けてくださいます。

心から

有能なスポーツ選手が情熱を燃やし、技を競ってフィールドで戦っている姿は魅力的です。そこには試合に対する彼らの思いが表れています。一方で、長いシーズンが終わりに近づいたころ、優勝争いから完全に脱落したチームは消化試合を戦います。そんなとき、選手のプレーに熱い思いを感じられないことがあります。すると、良い試合を期待し、料金を払ってスタンドにやって来たファンはがっかりです。

私たち一人ひとりにとって、情熱は人生の大切な要素です。主にどう仕えているかを見れば、その人の主に対する姿勢は明らかです。使徒パウロによると、主に仕えることの中には、各々の日々の仕事が含まれており、日々の仕事にどう向き合うかは、私たちがどう主に仕えているかを示しています。つまり、「うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい」と教えています(エペ6:6-7)。

このみことばの要は、「心から」だと思います。天におられる父なる神は、私を深く愛してくださり、ご自分のひとり子を私のために犠牲にしてくださいました。そのような神に対して最善を尽くさないわけにはいきません。神のために生きようという情熱は「心から」のものです。心からの思いは、自分のためにこれほどまで尽くしてくださった神に、何としても応えていこうとします。

救われて

マヌエル・ゴンサレス氏は、2010年のチリ鉱山落盤事故の際、地下に69日間も閉じ込められた33名の作業員のところに最初に下り立った救助隊員です。彼は自らの命を危険にさらしながら、閉じ込められた人々を連れ戻すために先陣を切って、地下およそ700メートルまで降下しました。その後、作業員がひとり、またひとりとカプセルで地上に引き上げられてくる様子を、世界中がかたずを呑んで見守り、感動しました。

さて聖書には、これ以上に感動的な救出劇が記されています。アダムとエバの背信行為によって、すべての人は罪に捕らわれました(創2:17、3:6、19節、ロマ5:12)。人は罪から解放されない限り、「死」と向き合わなければなりません。それは肉体の死であり、永遠の死です。しかし神は、ご自身の御子イエス・キリストという救助隊員を送られました。イエスの死と復活によって「救い」が提供されました。これを受け入れる人は、罪の支配から解放され、罪の結果としての死から自由になれます(ロマ5:8-11、10:9-11、エペ2:1-10)。

キリストは、「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリ15:20)。イエスは死からよみがえった最初の人であり、再び死ぬことのないお方です。キリストを信じる人は誰でも、このように永遠のいのちを与えられます(ロマ8:11)。

あなたはまだ、罪の捕らわれ人ですか。イエスの贈り物である「救い」を受け取りましょう。そうして永遠に、キリストと共に生きる人生の自由を楽しみましょう(使16:31、エペ2:1、コロ 2:13)。

止められない

上が駄目なら下から、それも駄目なら、脇にまわるか、または中央を突っ切るか…止めようとしても無駄ですよ。自分が得するチャンスに出会うと、このような態度で、何とかしてそれを物にしようとする人をしばしば見かけます。そして、目的を果たすためにあらゆるものをつぎ込みます。けれども、その考えは間違っているかもしれません。実際、バラムという男のロバがその証です。

バラムは隣国の王からもうけの多い仕事を頼まれたので、引き受けてもよいだろうかと神に尋ねました(民22)。しかし、神は良しとは言われませんでした。すると隣国の使者は、さらに高い報酬を提示して、彼を誘いました。バラムは、神が考えを変えてくださるかもしれないと期待して、再度、神に尋ねました。すると神は行っても良いと言われましたが、それには厳しい条件が付けられていました。神はバラムの本心をご存知で、それを快く思っておられませんでした。そういうわけで、神は主の使いを送られ、バラムの行く手を阻まれたのです。バラムには主の使いが見えませんでしたが、バラムを乗せていたロバには見えたので、進みません。バラムは前進しようとしないロバに腹を立て、ひどく叱りつけました。

バラムの物語は、全ての障壁は乗り越えるためにあるのではないことを教えてくれます。中には、私たちが愚かなことをしないように、神が準備してくださった障壁もあります。計画が狂ったとき、それがサタンの仕業と決めつけないようにしましょう。神が私たちを守ってくださっているのかもしれません。

レッドテープ

英語に「レッドテープ」という言い回しがあります。「お役所仕事」という意味で、官僚的で、いらいらするほど物事がはかどらない様子を表します。その語源は、かつて役所では公文書を赤いリボンで結んでいたことにあります。1800年代の初期、スコットランド人の歴史家トーマス・カーライルが、行政ののろのろした対応に抗議するエッセイの中でこの言葉を使い、一躍有名になりました。また、アメリカ南北戦争の後、帰還兵がなかなか保障を受けられないという問題が起こり、「レッドテープ」という言葉が再浮上しました。これは、何かをしようとしたとき、厄介な障害が立ちはだかって、焦燥や失望を引き起こすことを意味しています。

レッドテープ(お役所仕事)は世の語り草ですが、この世に一カ所だけ、それがない所があります。それは神の王座です。ローマ人への手紙5章2節で使徒パウロは、「キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた」と述べています。悲しみに打ちひしがれたり、心が騒いだりして、私たちが神のみもとに駆け寄ろうとするとき、その邪魔をするレッドテープはありません。なぜなら、イエス・キリストが私たちのために道を備えて、天の御座に近づくことができるようにしてくださったからです(ヘブ 4:16)。

忘れないでください。心が傷ついて苦しいとき、神に助けを求めるために数々の障害を乗り越えなければならない、などということはありません。キリストによって、私たちは今すぐ、そして完全に、神にアクセスできるのです。

お話の時間

子どものころ、私は母に絵本を読んでもらうのが大好きでした。母の膝に乗ってページの絵を細部までしっかりチェックしながら、彼女のひと言、ひと言に聞き入りました。次のページに何が出て来るか、それはもうわくわくしたものです。

ところで、私たちの人生もまた、絵本の読み聞かせのようなものだと考えてみたことはありますか。良い時も、悪い時も、どちらでもない時も、周りの人々は「私たち」という絵本を見たり聞いたりしています。私たちの物語は、その口から出る言葉だけでなく、態度や行動を通して伝えられます。順風や逆風、その時々の状況にどう応答するかを、私たちの子どもや孫たち、配偶者や近所の人、同僚などが観察しています。

使徒パウロは、イエスに従うクリスチャンの人生は手紙だと述べています。それは、「すべての人に知られ、また読まれ…キリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ」た手紙です(Ⅱコリ3:2-3)。

周りの人たちは、この手紙を読み、私たちの人生を知るのですが、それは果たして何を語るのでしょう。赦しでしょうか、あわれみでしょうか。寛容、忍耐、もしくは愛でしょうか。

もしあなたが、神の恵みに満たされた人生の喜びを聖霊によって体験しているなら、素晴らしい神の語り部になる喜びも、どうぞ味わってください。

招待者リスト

クムランというユダヤ人の共同体が一世紀に存在しましたが、彼らは世俗の影響を受けずにメシヤの到来に備えようと、社会から隔絶して孤高の生活をしていました。彼らは祈りの生活や洗いの儀式、行動規則の遵守に力を入れていました。発掘された文書によると、彼らは目や手足の不自由な人たちを共同体に受け入れなかったそうです。これは、身体に欠陥のある者は誰でも宗教的に汚れている、という信念に基づいており、そのような人たちが食事に招かれることはありませんでした。

その同じ時期、イスラエルの救い主イエス・キリストは、ユダヤやガリラヤの町や村で活動しておられました。父なる神の御国を宣べ伝え、人々を教え、慰め、素晴らしい奇跡を行っておられました。驚くことに、イエスはこう言われました。「祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。…あなたは幸いです」(ルカ14:13-14)。

イエスのみことばと、宗教界のエリートであるクムラン共同体の招待者リストは対照的です。そして、それは次のことを教えています。つまり、私たちの交わりは、自分と同じような人、自分と同じ考え方の人、また自分と同じように行動する人同士の交わりになる傾向にあります。しかし主は、私のようにすべての人を受け入れなさいと、強く勧めておられます。