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究極の再会

父が永遠の住まいに旅立つ直前の数日間、ベッドの脇で寝ずの看病をしたときのことを決して忘れないでしょう。父が亡くなったときのことは、まるで昨日のことのように鮮やかな記憶となって残っています。父はいつも、私とともにいてくれました。どんなことでも相談できました。いっしょに釣りをしたことは、よい思い出です。私たちは神や聖書について語り合ったり、農場で暮らした青年の頃の楽しい話をしてもらったりしました。

声高らかにハレルヤ!

数日前のこと。旧友のボブが、近所のスポーツジムでせっせと自転車のペダルを踏みながら、指につけた血圧計を見つめているところを目撃しました。

主の目に尊い

共通の友人の訃報が届いたとき、「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」(詩116:15)と言葉をかけてくれた人がいます。彼は主にある賢明な兄弟です。亡くなった友人も力強い信仰の持ち主で、信仰に裏打ちされた人生を送った人だったので、今は神とともにいるとわかっています。彼の家族もそう信じていました。それでも、家族の悲しみはいかばかりかと、それしか考えられませんでした。もちろん、大切な人を失って悲しんでいる人を思いやるのはふさわしいとは思いますが…。

旅の道連れ

最近、大学院時代の同窓生の消息を調べてみると、多くの人が亡くなっているのが分かりました。改めて人生の短さを思い、気持ちを引き締めました。大抵の人は70歳か80歳ぐらいまで生きて、世を去ります(詩90:10)。私たちは旅人であり寄留者だとイスラエルの詩人は語っていますが(詩39:12)、まさにその通りです。

終わり?

世のすべてのものには終わりがある、というのは、時として辛いことかもしれません。おもしろい本を読んでいると、終わってほしくないと思います。もうすこし長ければよかったのにと、映画を見終わって思うこともあります。

打ち勝つ

ラジオでセミナーの宣伝をしていました。「死に永遠に勝ち続けよう。その方法をお教えします」と面白いことを言っていました。どんな方法で死に勝ち続けられるというのだろうと、少し興味を持ちました。ダイエットかエクササイズ、または死後の身体を冷凍するという類の話かしらと思いましたが、実は私の聞き違いで、正しくは「借金に勝ち続け…」でした。(注:英単語の「死」と「借金」は音が少し似ています。)

最高のニュースは、イエスが私たちの負債を支払ってくださったので、私たちは死に打ち勝つことができるというものです(Ⅰコリ15:55-57)。罪という負債があると、神から切り離されています。しかし、イエスは自らすすんで十字架にかかり、ご自分のいのちで私たちの負債を払ってくださいました。マグダラのマリヤと他のマリヤは、イエスの死から3日目にイエスが葬られた墓を訪れましたが、御使いが現れて「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです」と語るのを聞きました(マタ28:6)。ふたりは大喜びで弟子たちにそれを知らせに行きましたが、その途中、イエスがふたりの前に現れました。主は「平安あれ」(口語訳 9節)と言われました。イエスは復活され、イエスに従う人たちには喜びが与えられました。

イエスは死のとげを取り去られました(Ⅰコリ15:55)。神の御子イエスの死と復活を信じるならば、私たちもまた勝利します。イエスの完全な御業によって、私たちは永遠に死に勝ち続けられます。

こっそり逝ったおじいちゃん

従兄弟のケンは4年もの間、癌と勇敢に闘いました。最後の日には、妻や3人の子どもたち、そして孫たちが、次々に病室にやって来て、特別な別れの時を過ごしていました。ところが、たまたま部屋に誰もいなかった数分の間に、ケンは永遠への旅に出かけて行ったのです。家族のみんながそのことに気づいたとき、幼い孫娘が、かわいらしく言いました。「おじいちゃんは、こっそり逝っちゃったんだね。」

ほんの少し前まで、神はケンと一緒にこの地上におられました。しかし、次の瞬間、ケンのたましいは、神とともに天国に移されました。

詩篇16篇は、ケンが好きだった詩篇です。自分の葬儀では、ここを読んで欲しいと言っていました。詩篇の作者ダビデは、神との個人的な関係ほど貴重な宝はないと語りましたが、ケンもまったく同感でした(16:2、5)。ダビデは、「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず…」と述べました(16:10)。神を避け所とするならば、死がクリスチャンのいのちを奪い取ることはできません。ダビデは、そのことが分かっていました。ケンであれ、誰であれ、イエスを救い主と信じる人は誰でも、死に捨て置かれることはありません。

イエスが死んで復活してくださったので、私たちもいつの日かよみがえります(使2:25-28、Ⅰコリ15:20-22)。そして、神の右には楽しみがとこしえにあることを知ります(詩16:11)。

不可解な真実

無限の神が、有限の人間にご自分の心を伝えようとなさっても、その結果は不可思議としか見えないことがあります。その一例は詩篇の一節、「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」(詩116:15)です。一読では納得のいかない、むしろ疑問の深まる個所です。
そんなことがあるだろうかと思ってしまいます。私たちは持って生まれた肉の目でものごとを見ます。そして、最愛の17歳の娘を交通事故で奪われた私は、このことの何が「主の目に尊い」のだろうと思います。愛する人を奪われた人はみな、そのように思うのではないでしょうか。

けれども、主の目に尊いとは、地上の恵みを受けることに限定されないと考えるとき、この謎は解明されていきます。このみことばは、天国の視点に基づいています。例えば、私は詩篇139篇16節を読んで、娘のメリッサが天国に入ることは予定どおりだったと納得することができました。神は彼女の到着を心待ちにしておられ、それは「主の目に尊い」ことでした。また、ご自分のところに迎え入れられた神の子どもたちが、長子であるイエスと対面して感動に酔いしれるとき、その姿をご覧になった天の父である神は、どれほど嬉しいことでしょう(ヨハ17:24参照)。

キリストを信じる人が死ぬとき、神は、両手を広げてご自身の臨在の中に、その人を迎え入れてくださいます。私たちは涙を流しますが、それでも、その人の死が神の目にどれほど尊いかは理解することができます。

栄光を受ける準備

牧師であり聖書の解説者であったマーティン・ロイドジョンズは、1981年3月1日、死の床にありました。彼は1939年から1968年まで、ロンドンのウェストミンスター・チャペルの牧師として仕えました。人生が終わりに近づいたとき、彼は話す能力を失っていました。そこで、これ以上自分の回復のために祈って欲しくないと知らせるため、「栄光に向かっていく私を、どうか引きとめないで」と紙に書いたのです。

人の命は大切ですし、この世を去って天国に行く家族や友人を見送るのは辛いものです。しかし、神は、いつ誰を御国に呼び寄せるか、決めておられます。詩篇116篇15節は「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」と語ります。

自分の死が近いと知ったとき、使徒パウロは、天国で自分を待っているものに励まされ、次のように述べました。「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」(Ⅱテモ4:8)。

私たちが今、人生の旅のどこにいたとしても、終着駅は主のみもとです。聖書は「実はそのほうが、はるかにまさっています」と語ります(ピリ1:23)。このみことばは、逆境に自信を持って立ち向かう助けとなります。また、キリストが準備された栄光の家に向けて旅立とうとする人たちを見送らなければならないとき、私たちの心を慰めてくれます。