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失敗は破滅ではない

チャーチル首相は第二次世界大戦中、国民を鼓舞することに長けていました。1940年6月18日、彼は恐れる民衆にこう語りかけました。「ヒットラーは、我々を倒さなければこの戦争に負けると知っている…よって、腹をくくって、大英帝国が数千年つづいたとしても、『あれが彼らの最盛期だった』と人々が言うようになると決意を固めよう。」

誰でも自分の盛んなときを覚えていてもらいたいものです。使徒ペテロの最盛期は恐らく、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と信仰を告白したときでしょう(マタ16:16)。他方、私たちは自分の失敗によって自分の器の大きさを決めてしまいがちです。ペテロは繰り返しイエスを知らないと言い、外に出て、苦い涙を流しました (マタ26:75ヨハ18章)。

私たちもペテロと同様、神の基準に届く者ではありません。信仰、人間関係、罪の克服、神に対する忠誠や従順、どれをとってもそうです。しかし、チャーチルの名言にあるように、失敗は破滅ではありません。感謝なことに、霊の生活においても同様です。イエスは、自分の失敗を悔い改めたペテロを赦し(ヨハ21章)、彼を伝道者として用いて、多くの人をご自分のもとに導かれました。

失敗は破滅ではありません。神は帰って来る人をいつくしみ、挽回させてくださいます。

暗闇に光

ペルーに行ったとき、数ある山岳地帯の洞窟のひとつを訪れました。ガイドによると、この洞窟は非常に深いのですが、約14キロメートルの深さまでは既に調査済とのことでした。私たちはこうもりや夜行性の鳥、興味深い岩石層などを見学しました。しかし、ほどなく闇に不安がかきたてられ、息が詰まりそうに感じました。地上に戻って日の光を見た時は、ほっとしました。

責任のなすりあい

今までに色々と責められたことがありました。私の罪や失敗、実力不足などのせいで、家族や友人(そして恐らく赤の他人)を悲しませたり、不安にしたり、迷惑をかけたりしたのですから、それはもっともです。一方、私の責任ではないことや、私にはどうすることもできないことなのに非難されたこともあります。

後に来る罰

ある牧師のメッセージが地方紙に載っていました。その牧師は、紹介されたばかりの年配の男性と「電力会社で働いていたとおっしゃいましたね」といって会話をつづけました。彼が「ええ、そうです」と答えたので、牧師は、子どもの頃に住んでいた家の敷地内に、その会社のケーブルが通っていたと言いました。男性は「どこに住んでいたのですか」と質問し、牧師が答えると、「その家のことは覚えています」ということでした。「あそこは、ケーブルの警告版で苦労しました。上げても、上げても、子どもたちが撃ち落としてしまいましたから。」牧師が、恥ずかしさで顔を赤らめると、「あなたは、あの狙撃犯のひとりでしたか」と言われました。そのとおりだったのです。

重荷を背負う

海軍の歴史にとって暗い出来事が、1628年8月10日に起こりました。その日、スウェーデン王国の軍艦ヴァーサ号が処女航海に出航しました。竣工までに2年を要し、豪華な内装と64の大砲を持つ軍艦は、スウェーデン海軍の誇りでした。しかし、出航してまもなく沈没してしまったのです。何が起こったのでしょう。実は、船が重すぎて航行に適さなくなっていました。過剰な重量が、ヴァーサ号を海の底に沈めてしまいました。

ボスは誰

妻が2人の孫の子守をしていたとき、ふたりはおもちゃのことでけんかを始めました。3歳年下の弟は突然、「キャメロン、自分の部屋に行って!」と兄に強く命令しました。その勢いに押されて、兄はしょんぼりと肩を落とし、すごすごと自分の部屋に退散し始めました。しかし妻は「キャメロン、部屋に行く必要はありませんよ。ナタンはあなたのボス(監督)ではないのですからね」と言いました。キャメロンは「なるほど!」と思ったようです。にこにこして再び腰をおろすと、喜んで遊びつづけました。

どこに いるのか

両親の車が帰って来た音を聞いて、高校生の息子たちはうろたえました。家中が荒れ放題になっていることを、どう言い訳すればよいのでしょう。前日の朝、父から、騒ぐのが好きな友だちを家に入れてはいけない、悪さをしてはいけないとはっきり言われていました。しかし、その友だちがやって来ると、父の言いつけに背いて彼らを家に上げてしまいました。そんなこんなで、家の中は散らかってぐちゃぐちゃ、少年たちはほろ酔い気分でだらしなくしていました。彼らは、怖くなって隠れました。

押入れを片づける

部屋を片付けてきなさいと言う母の声を、今でもはっきり覚えています。私は仕方なく部屋を片付け始めますが、しまうはずのマンガを手に取って読み始めます。ところがそれもつかの間、「5分後に部屋を点検するわよ」と言う母の警告が聞こえてきて、私は片付けを再開します。そんなにすぐきちんと片付けることはできないので、私はどうしてよいか分からない物を全部押入れに隠し、ベッドを整えて、押入れの点検がないことを願いながら母が来るのを待つのです。

知られる

私たち人間にとって、最大の葛藤のひとつは、人に知られたい、でもやっぱり知られたくない…というものです。私たちは神の姿に似せて造られているので、知られるために造られたと言えます。しかし、罪によって堕落してしまったために、誰もが他人には知られたくない罪や弱さを持っています。