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及ばない

米国で1970年代に流行したものの中に、バイクジャンプがあります。しかし、1974年9月8日に流行のピークを迎えたと言えるでしょう。その日、アイダホ州のスネーク・リバー・キャニオンには多くの観客が集まっていました。イーブル・ニーブル氏の乗る蒸気を使った特注マシン「スカイサイクル」が谷を飛び越えられるか見物しにきたのです。結局、この試みは失敗に終わりました。

頭からこころへ

子どもの頃のピアノの先生は、暗譜にこだわる人でした。一曲を間違わないで弾くというだけでは十分でなく、何曲かを連続して弾いて、どれも完璧でなくてはいけませんでした。その理由は、ピアノを弾いて欲しいと人に言われたときに「ごめんなさい、楽譜がないから弾けません」と言わなくても良いように、ということでした。

子どもの頃、聖句の暗記もしました。詩篇119篇11節も覚えました。私は幼かったので、聖書を暗記すれば罪を犯さないのだと信じ、一生懸命暗記しました。暗唱聖句で表彰され「ムーディ・バイブル・ストーリー」の本をもらったこともありました。

聖書を暗唱することは良い習慣ですが、覚えるだけで罪を犯さなくなるわけではありません。私も表彰されてまもなく、聖書のみことばを頭に叩き込んだけれども、私の態度や行動にはあまり反映されていないと気づきました。知識があるというだけでは罪に打ち勝てるはずもなく、むしろ罪悪感ばかりが募りました。

やがて、私は主のみことばを全人的に理解すべきだと気づきました。つまり、音楽家が演奏曲を自分のものにするように、私もみことばを自分のものとし、心にたくわえるのです。私たちは聖書のみことばを引用するのと同じぐらい、聖書のみことばを行わなければなりません。みことばが私たちにとって、単なる頭の知識から心の宝へと変化するにつれ、罪の影響力は失われていきます。

隠すもの

隠したいものがあるなら、マイク・スラッテリーに相談するとよいかもしれません。数年前、ある携帯電話会社が、マイクの所有地にアンテナを立てさせてほしいと話を持ちかけました。そして、景観を守るために、アンテナをやしの木に見せかけると言うのです。しかし、マイクには、より良いアイデアがありました。電波を通すビニールパネル製の、家畜小屋を装った小屋を建てるのです。後に彼はこのアイデアをもとに、美観とセキュリティという観点から、アンテナを隠す建物を作る会社を設立しました。マイクは、家畜小屋には牛も馬もおらず、アンテナだけがあるとは近所の人も気づいていないと確信しているそうです(コロラドスプリングスのガゼット新聞より)。

私たちにも、人に見られないように隠しているものがあります。それは、散らかった物置部屋のような害のないものかもしれませんが、一方で、非常に有害なものを隠しているかもしれません。自らの道徳的もしくは霊的な欠点を直視せず、人どころか神にさえも隠そうとしているかもしれません。

詩篇32篇でダビデは、罪を隠そうとする無益な行為(3-4節)と、本当のことを神に打ち明けて安堵する喜びを記しています。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」(5節)。

神に自らの罪を告白し、その罪を捨て去るなら、たましいが自由になったと感じます。そして、もう何も隠さなくてよいのだと安心させてくれます。

あの人でさえ

家系図をたどっていくと、先祖には娼婦がいて、その人は国家の敵をかくまった上に役人の尋問を嘘でかわしていたということが分かった、と想像してみてください。あなたならどうでしょう。恥ずかしいご先祖さまとして秘密にしますか。それとも、一族の伝説のヒロインとしてスポットライトを当てて賞賛するでしょうか。

ラハブを見てみましょう。もし彼女がヨシュア記2章にしか登場しないなら、私たちは彼女を聖書に登場する他の裏切り者と一緒くたにして、悪者のひとりにしてしまうかもしれません。ところが、彼女の物語はここで終わっていません。マタイ1章5-6節には、彼女がダビデ王の高祖母であることが示されています。つまりラハブは、救い主イエスの家系に連なっています。さらにヘブル11章31節は、ラハブを信仰の人と語り、エリコの陥落(ヨシュア記6:17参照)によって滅びなかったのは、その信仰によるのだと記しています。ヤコブの手紙2章25節は、彼女がイスラエルのスパイを救出したのは立派な信仰の証だと語ります。

神の愛にはびっくりさせられます。神は、評判の悪い人に目を留めて、その人の人生を変えられます。変えられた人生をとおして、神の愛と赦しを明らかに示されます。自分は悪すぎるので赦されないと思っていますか。または、そのように思っている人を知っているなら、ラハブについて読んでください。そして喜んでください。神はラハブでさえ正義のかがり火に変えてくださいました。そういうことならば、私たちにも希望があるはずです。

隠れた扉

1年で聖書を!
◆ エゼキエル書4-7
聖書のみことば ヤコブ1:12-21
 
試練に耐える人は幸いです。―ヤコブ1:12

その種の事件はスポーツ界で前代未聞というわけではありません。これが最後でもないでしょう。しかし、この事件に言及することで、恥ずべき過ちを繰り返さないように、自分たちを戒めることができるかもしれません。

クリスチャンで人格者だと思われていた大学フットボールチームのコーチが、全米大学体育協会の規則に対する明確な違反が発覚して、辞任に追い込まれました。ある雑誌は、「彼を公明正大な人としてきたこと自体、大学フットボール界の大いなる神話だったのではないか」とまで述べています。

これは彼にとって何とも恥ずべき事態でしたが、それ以上に、誰にでも起こりうることだという私たちへの警鐘でもあります。人生に秘密の扉をこっそり作り、その向こうで主の御名を汚すような行為をするという誘惑に、人は絶えずつきまとわれます。誠実さと正しさを忘れ、キリストの名をはずかしめてしまうリスクは、誰にでもあります。私たちは皆、誘惑に弱いのです。

誘惑に負けないためには、どうすればよいのでしょう。まず、誘惑が常にあることを認識し(Ⅰコリ10:13)、罪の恐ろしい結末を理解しましょう(ヤコ1:13-15)。そして、クリスチャン同士で説明責任を果たしましょう(伝4:9-12)。それに加えて、転ばないように神の助けを祈りましょう(マタ26:41)。なぜなら、神の恵みと力のみが、私たちを転落から守ってくれるからです。また転んだときでも、助け起こしてくださいます。

(Dave Branon)

どんな罪にも入り口がある。その扉を決して開いてはいけない。

神の絵

1年で聖書を!
◆ エレミヤ書17-20
聖書のみことば ヘブル12:3-11
 
主はその愛する者を懲らしめ、―ヘブル12:6

ある日、私の息子はオレンジ色のマーカーのふたを開け、父親の絵を描きました。まだ幼い彼が描いたのは、ひとつの丸の中に入った目と鼻と口が、二本の長い棒の上に乗っかっているものでした(息子によると、その二本の棒は足だそうです)。私は、幼い息子の努力を大いに褒めてあげましたが、彼の絵は、夫の特徴である青い目、頼りがいのある笑顔、そして白髪混じりの髪を描いてはいません。

真っ白

1年で聖書を!
◆ イザヤ書28-30
聖書のみことば Ⅰヨハネ1:1-10
 
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。―Ⅰヨハネ1:9

癌の治療をして1年後、定期健診に行った友人が結果を知らせにやってきました。彼の笑顔を見て、良い結果だったに違いないと確信しました。友人によると、1年目の定期健診をした医師は、すべての検査結果から判断して「100パーセント白です」と言ったそうです。「100パーセント白」とは、何と素晴らしいことでしょう。

失敗を恵みに

1年で聖書を!
◆ 箴言29-31
聖書のみことば ヨハネ21:15-19
 
主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。―哀歌5:21

芸術家のジェームス・ハベルは「失敗は贈物だ」と言います。ハベルは、作品の制作中に気に入らないところが出てきても、決して初めからやり直したりしません。むしろ、その失敗を生かす方法を探し出し、より良い作品を作るのです。失敗は誰にでもあります。

トラブルの原因は

1年で聖書を!
◆ 箴言19-21
聖書のみことば ヨシュア記7:1-13
 
あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。―民数記32:23

庭の芝生がおかしいのに気づきました。何が原因なのかは分かりませんが、とにかく芝生が枯れていきます。それで少し調べてみると、原因がはっきりしました。モグラです。この、小さくてどん欲な食虫動物が、手入れの行き届いた芝生の真下を這い回って食べ物を探すので、芝生がめちゃくちゃになってしまったのです。