前進する
超教派の修養会で、信仰の先輩として敬愛しているクライドに会いました。長年、私のために祈り、時にかなったアドバイスをしてくれる人です。彼はふたりの若い中国人と一緒でしたが、この人たちは最近キリストを信じたばかりでした。彼らもまたクライドを心から敬愛していました。クライドはもうすぐ80歳になりますが、「キリストを知り、キリストを愛することが、今ほどエキサイティングだったことはなかったよ」と顔を輝かせて語りました。
黙れ、静まれ
友人のエルイーズは、ものごとを正しい視点でとらえる賢い人です。あるとき、「調子はどう?」と尋ねたら、「悪くないわ」といういつもの返事のかわりに、「イエスさまを起こしに行かなくっちゃ!」と答えました。どういうことかと思ってさらに尋ねると、「あら、聖書に書いてあるでしょ」とにっこり笑います。そして、「弟子たちが嵐に遭ったとき、イエスさまを起こしに行ったでしょう。私も助けてもらいに行くところなの」と言いました。
抜き差しならない状態に陥って、逃げ道が見当たらないという場合、あなたならどうしますか。生命の危険さえ感じる嵐の中にいた弟子たちのように、私たちもイエスに助けを求めて走っていくかもしれません(マコ4:35-41)。けれども、時には、問題の発端となった人を中傷したり、復讐しようとしたり、もしくは嘆きの渕に落ち込みながら、恐れて身を隠したりして、問題を切り抜けようとします。
そんな私たちは、イエスを唯一の助けとして逃げ込んだ弟子たちから学ばなければなりません。たとえ、イエスが即座に問題を解決してくださらなかったとしても、イエスは同じ船に乗っていてくださいます。それが分かっているのといないのでは、雲泥の差です。
ありがたいことに、イエスは私たちが人生の嵐に遭遇するとき、いつもともにいて、「黙れ、静まれ」(39節)などとおっしゃってくださいます。ですから、嵐に遭ったらイエスを探してすぐそばにおられることを確認しましょう。そして、イエスがおられることの平安で心を満たしていただきましょう。
嵐の中の航海
古代アクスム王国は紅海に面したアフリカ大陸の東岸(現在のエチオピア)にありましたが、その国の人々は、季節風の強い風を帆に受けてスピーディな航海ができることを発見しました。激しい風雨を恐れてひるむのではなく、むしろ、嵐の中を航海する術を習得しました。
詩篇107篇は、神は私たちが嵐に見舞われることを止めようとはなさらず、むしろ、私たちが嵐の中を航行できるように助けてくださるという状況を見事なまでに描いています。それは「主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした。…この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ戻された」(25、28節)と述べています。
災難に見舞われたとき、神が助言し、導いてくださることを信じる、というのは聖書のテーマのひとつです。ヘブル人への手紙11章には、信仰を訓練するチャンスだと捉えて困難と向き合い、神の恵みや必要の満たし、また困難からの脱出を体験した人たちが列挙されています。「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました」と語られています(ヘブ11:33-34)。
人生に嵐があるのは避けられません。問題に直面したときの最初の反応は、「ここから逃げ出したい」かもしれません。しかし、神を信頼して、嵐の中を航行する術を教えてくださいと願うこともできるのです。腹をくくって、そのように祈りましょう。
見捨てられていない
何年も前、夫婦でワシントンDCにあるスミソニアン航空宇宙博物館を訪ねた時のことです。ホールに一台のベビーカーがぽつんと置かれ、そばには誰もいませんでした。たぶん持ち主はかさばるベビーカーを置いて、子どもだけを抱いていったのだろうと思いました。ところが、そばに寄ってみると、赤ちゃんが中で寝ているではありませんか。親はどこにいったのでしょう。兄弟、それともベビーシッターがいるのでしょうか。しばらく待ってみましたが、これは自分の大切な赤ちゃんだと言う人は現れません。それで、博物館の職員を呼び、赤ちゃんが安全なところで保護されるのを見届けて、その場を離れました。
このことがあって、「見捨てられる」ということについて考えさせられました。それは、この世の誰にも求められていないと痛切に感じることです。どれほどの悲しみでしょう。しかし、人が見離したとしても、神は違います。神の愛と臨在は確約されています。神は、決して私たちを見捨てないと約束され(申31:8)、どこへ行くときも共にいる、いつも必ず、世の終わるときまで一緒にいると言っておられます(マタ28:20)。
私たちは神の子どもであり、神がご自分の子に対する責任を放棄することはいっときとしてありません。神はいつもかかわっておられます。誰に捨てられても、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ロマ8:35-39)という神の約束を固く信じることができます。
神の力強い御腕
友人のジョアンの夢は、ピアニストになってソロの演奏家か伴奏者として各地を回ることでした。しかし、大学でピアノを学んでいたとき、右腕に腱鞘炎を患って、演奏家に必要な強い腕力を失ってしまいました。それで結局、音楽史と文学の学位を取って大学を卒業しました。
ジョアンはクリスチャンでしたが、ここ数年間は神に背を向けて、自分勝手な道を歩んでいました。大学を卒業後、さらに困難な状況に見舞われると、彼女は、神が自分を呼び戻そうとなさっていると感じました。そして、主のみもとに戻ったのです。
結局、彼女の腕は癒されて強くなり、演奏家として旅をするという夢は実現しました。彼女は、「私は今、自分のためにではなく神の栄光のために演奏しています。神が手を差し伸べてくださったおかげで、私の霊性と腕力が回復されました。ですから、神から賜った才能を用いて神に仕えることができるのです」と語っています。
神は「伸ばした腕」(出6:6)によって、イスラエル人をエジプトの苦役から救うと、モーセに約束されました。反抗を繰り返すイスラエル人がこの約束を疑ったにもかかわらず、ご自分の約束を守られました(14:30-31)。神の力強い御腕は、私たちに向かっても差し出されています。私たちの状況がどう展開しようと、神は信頼できるお方です。神の子どもたちのために、みこころを成されます。私たちは神の力強い御腕を頼りにすることができます。
神は頼れる
私は迫害を体験したことはありません。自分の信仰や言動がもとで、身に危険が及んだことは一度もありません。迫害については、読んだり、聞いたりした、わずかな知識があるだけです。しかし、世界の多くのクリスチャンの状況は、そういうものではありません。ただイエスを愛しているというだけで、また、イエスをみんなに知ってもらいたいと思うだけで、毎日生命の危険にさらされて生きている人たちがたくさんいます。
肉体が危険にさらされるのではなく、心が張り裂けてしまうような迫害もあります。愛する家族がクリスチャンではなく、キリストを信じる信仰をさげすんだり、神を愛し賛美することを愚弄(ぐろう)したりすることです。こんなことが続くと、自分は家族に愛されていない、受け入れられていないと感じてしまいます。
使徒パウロは「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」と警告しています(Ⅱテモ3:12)。あなたに拒絶を体験させるのが、あなたの家族である場合もあります(マタ10:34-36)。自分の家族が神を拒絶すると、神を愛する私たちは、自分が拒絶されたかのように感じます。
イエスは「迫害する者のために祈りなさい」と言われましたが(マタ5:44)、その迫害者は、私たちを嫌う他人だけとは限りません。しかし、神は特別な恵みをくださって、その迫害を耐え忍ぶことができるようにしてくださいます。
価値あるもの
今までの人生で集めたものや、捨てずにとっておいたものがたくさんあります。その中には、以前は大切だったけれど、今では当時の輝きが失せた物も多くあります。それなのに私は性懲りもなく新しいものを見つけ、自分のコレクションを増やしていくことにワクワクしてしまいます。
私たちは、これも大事、あれも大事と色々なものをため込んでしまいます。ところが、本当に価値のあるものはごくわずかです。事実、人生で最も価値あるものは、物ではないでしょう。私は年とともに、そのことが分かってきました。人生で何よりの宝は、私を愛し、私の人生に関わってくれた人たちです。「あの人がいなかったら大変だ」と心の中で言える人たちこそが、何よりも大切な存在なのです。
ペテロはイエスが「選ばれた石、尊い礎石」だと語りましたが(Ⅰペテ2:6)、そのことばに、私たちの心も共鳴すべきです。イエスこそが本当に価値あるものです。何物にも、何人にもまして大切なお方なのです。もしイエスがいつも一緒にいてくださらなかったなら、私たちは大変なことになっていたでしょう。イエスの賢明なアドバイス、絶対的な導き、慈愛のこもった忍耐、変革を促す叱責がなかったなら、私たちはどうなっているでしょう。イエスなしで、どうやって生きていけるでしょうか。そんなことは、想像すらできません。
悪い知らせに打ち勝つ
多くの人が「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか」と言っている、というダビデのことば(詩4:6)は、今日の私たちにありがちな悲観的な見方に通じているようです。新聞の一面やインターネット、テレビのニュースには、犯罪や事故、政治経済の混乱、著名人のスキャンダルなどが大きく取り上げられています。職場でも家でも、話題になるのは困ったことばかりです。これでは誰もが悲観的になってしまいます。もっとましなニュースが聞きたかったら、どこに行けばよいのでしょう。
神は、苦しみから解放してくださり(1節)、祈りを聞いてくださいます(3節)。ダビデは、神を仰ぎました。そして、状況が一時的に好転することを願うよりも、絶えることのない神の励ましに心を留めて、「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください」と祈りました(6節)。その結果は、「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています」(7節)という賛美です。
ダビデは王位に着く前も後も、生涯、敵に追い回されました。しかし、一日の終わりには「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」(8節)と言うことができました。
詩篇4篇が語る神の守りという真理を、1日の始めや終わりに思いめぐらすことは、ふさわしいことです。
恐れを覚えるとき
長男が生まれたときは大変な難産で、30時間以上もかかりました。その日の医師は妻の担当医ではなく、代理の医師だったので、妊娠中の経過をよく知りませんでした。その結果、緊急帝王切開を行う決断をするまでに時間がかかりすぎました。息子は大変な状況を経て深刻な状態で生まれてきたので、すぐに新生児集中治療室に入れられました。ところが、この小さな命が難産によって引き起こされた深刻な症状を乗り越えていくために、医師ができることは何もなかったのです。しかし、神のあわれみにより、息子は回復していきました。
あれほどの恐怖を味わったことは、後にも先にもありません。私は、集中治療室のベビーベッドのかたわらで凍りついていました。しかし、祈り心で神に語りかけるなら、神がそばにいてくださるという確信がありました。
人生で恐れを覚えるとき(そのほかのどんな時にでも)、神のご臨在を実感し、神が心配していてくださると分かるならば、痛んでいる心に大きな慰めが与えられます。詩篇の作者であるダビデは、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」と賛美しました(詩23:4)。
恐れに圧倒されるときでも、神はそばにおられます。神のなぐさめは、試練の谷を抜けるまでずっと一緒に歩んでくださいます。