イエスのために冒す危険
デスモンド・ドスは基礎訓練の間、教官や同僚の兵士たちを苛立たせました。彼は反戦主義者で、武器を持って戦場に赴くことを拒みました。それで、勇気が無いのではないかと疑われていました。しかし、この若いクリスチャン兵士に迷いはありませんでした。彼は衛生兵としての訓練を受けました。彼の目的は、命を救うために戦地に赴くことでした。
死に至るまで忠実
イギリスのリバプールにあるウォーカー・アート・ギャラリーには、古代都市ポンペイの忠実な護衛兵の絵があります。この絵は、考古学者が発掘したポンペイの遺跡から見つかった、火山灰に埋もれた完全武装のローマ兵を題材にして描かれました。紀元79年のベスビオ火山の噴火によって、ポンペイの人々と町は、一夜にして灰に埋ずもれました。
恐れに直面して
子どもの頃、寝室の灯りを消すのが嫌でした。椅子にかけた服がお化けのように見えて、とても怖かったことを覚えています。私は恐怖で眠れませんでした。この幼い日の経験から、人生に問題が起こったとき、恐怖は私の味方ではないと学びました。恐れは、前に踏み出す力を奪います。萎縮してしまい、すべきことができなくなります。イエス・キリストを見つめ続けていなければ、そうなってしまいます。
頭からこころへ
子どもの頃のピアノの先生は、暗譜にこだわる人でした。一曲を間違わないで弾くというだけでは十分でなく、何曲かを連続して弾いて、どれも完璧でなくてはいけませんでした。その理由は、ピアノを弾いて欲しいと人に言われたときに「ごめんなさい、楽譜がないから弾けません」と言わなくても良いように、ということでした。
子どもの頃、聖句の暗記もしました。詩篇119篇11節も覚えました。私は幼かったので、聖書を暗記すれば罪を犯さないのだと信じ、一生懸命暗記しました。暗唱聖句で表彰され「ムーディ・バイブル・ストーリー」の本をもらったこともありました。
聖書を暗唱することは良い習慣ですが、覚えるだけで罪を犯さなくなるわけではありません。私も表彰されてまもなく、聖書のみことばを頭に叩き込んだけれども、私の態度や行動にはあまり反映されていないと気づきました。知識があるというだけでは罪に打ち勝てるはずもなく、むしろ罪悪感ばかりが募りました。
やがて、私は主のみことばを全人的に理解すべきだと気づきました。つまり、音楽家が演奏曲を自分のものにするように、私もみことばを自分のものとし、心にたくわえるのです。私たちは聖書のみことばを引用するのと同じぐらい、聖書のみことばを行わなければなりません。みことばが私たちにとって、単なる頭の知識から心の宝へと変化するにつれ、罪の影響力は失われていきます。
目を覚ます
初秋のある朝、まだ外が暗いうちに家を出て車で事務所に向かっていました。すると突然、ヘッドライトで照らされた前方を茶色いものが横切り、次の瞬間、何かが当たった音がしました。私は時速110キロで走りながら、鹿に接触してしまったのです。かすった程度でしたので、車は(おそらく、鹿も)大丈夫でしたが、私は大いに動揺しました。
隠すもの
隠したいものがあるなら、マイク・スラッテリーに相談するとよいかもしれません。数年前、ある携帯電話会社が、マイクの所有地にアンテナを立てさせてほしいと話を持ちかけました。そして、景観を守るために、アンテナをやしの木に見せかけると言うのです。しかし、マイクには、より良いアイデアがありました。電波を通すビニールパネル製の、家畜小屋を装った小屋を建てるのです。後に彼はこのアイデアをもとに、美観とセキュリティという観点から、アンテナを隠す建物を作る会社を設立しました。マイクは、家畜小屋には牛も馬もおらず、アンテナだけがあるとは近所の人も気づいていないと確信しているそうです(コロラドスプリングスのガゼット新聞より)。
私たちにも、人に見られないように隠しているものがあります。それは、散らかった物置部屋のような害のないものかもしれませんが、一方で、非常に有害なものを隠しているかもしれません。自らの道徳的もしくは霊的な欠点を直視せず、人どころか神にさえも隠そうとしているかもしれません。
詩篇32篇でダビデは、罪を隠そうとする無益な行為(3-4節)と、本当のことを神に打ち明けて安堵する喜びを記しています。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」(5節)。
神に自らの罪を告白し、その罪を捨て去るなら、たましいが自由になったと感じます。そして、もう何も隠さなくてよいのだと安心させてくれます。
遠くから
数十年前にヒットした「ディスタンス」という曲は、平和で調和のとれた世界を夢見ています。
その歌は「遠いところから神様が見てくれている」と語ります。そのとおり、神は私たちを見ておられます。けれども、遠くからではありません。神は今、あなたのいるその部屋に、あなたとともにおられ、無限の愛を込めて、あなたをじっと見つめておられます。
修道院の厨房で長年、皿やなべを洗ったり、他の修道士のはき物を繕いながら深い霊性を育てた有名なブラザー・ローレンス(修道士)を思い出します。彼は、「できるだけ頻繁に神の礼拝者となり、神の神聖な臨在に心を定めます」と記しました。
これは、私たちの使命でもあります。それなのに、私たちはそれを忘れがちです。そこで、神のご臨在を再認識させるものを身近に置くのはどうでしょう。私は、十字架にかかられ、よみがえられたイエスが常に私のとなりにおられることを忘れないために、自分の机の上の棚に古い釘を打ち込みました。私たちのすべきことは「いつも私の前に主を置」くことです(詩16:8)。そうすれば、主は「世の終わりまで」(マタ28:20)私たちとともにおられ、「私たちひとりひとりから遠く離れてはおられ」ない(使17:27)と信じることができます。
忘れないということは、毎日折々に「いつも共にいる」と言ってくださったイエスの約束を思い起こし、「イエスさま、おはようございます」とか、「ありがとうございます」「助けてください!」「愛してます!」と言ったりするくらいの簡単なことなのかもしれません。
あの人でさえ
家系図をたどっていくと、先祖には娼婦がいて、その人は国家の敵をかくまった上に役人の尋問を嘘でかわしていたということが分かった、と想像してみてください。あなたならどうでしょう。恥ずかしいご先祖さまとして秘密にしますか。それとも、一族の伝説のヒロインとしてスポットライトを当てて賞賛するでしょうか。
ラハブを見てみましょう。もし彼女がヨシュア記2章にしか登場しないなら、私たちは彼女を聖書に登場する他の裏切り者と一緒くたにして、悪者のひとりにしてしまうかもしれません。ところが、彼女の物語はここで終わっていません。マタイ1章5-6節には、彼女がダビデ王の高祖母であることが示されています。つまりラハブは、救い主イエスの家系に連なっています。さらにヘブル11章31節は、ラハブを信仰の人と語り、エリコの陥落(ヨシュア記6:17参照)によって滅びなかったのは、その信仰によるのだと記しています。ヤコブの手紙2章25節は、彼女がイスラエルのスパイを救出したのは立派な信仰の証だと語ります。
神の愛にはびっくりさせられます。神は、評判の悪い人に目を留めて、その人の人生を変えられます。変えられた人生をとおして、神の愛と赦しを明らかに示されます。自分は悪すぎるので赦されないと思っていますか。または、そのように思っている人を知っているなら、ラハブについて読んでください。そして喜んでください。神はラハブでさえ正義のかがり火に変えてくださいました。そういうことならば、私たちにも希望があるはずです。
最も力のない人々
アメリカの経済サイト「24/7 Wall St.」に、「世界で最も力のない100人」という風変わりなリストが掲載されました。ここに名前を連ねている企業家、スポーツ選手、政治家、芸能人に共 通するのは、かつては力ある人だったということです。よんどころない事情で力を失った人、経営判断を誤って失脚した人もいますが、道徳的な過ちを犯して影 響力を失った人たちもいます。
使徒パウロは、コリント人への手紙第一10章で旧約聖書の歴史を振り返り、厳しい現実を教えました。イスラエル人たちはエジプトの奴隷でしたが、 モーセに導かれて約束の地に向かっていました。この人たちは、神が奴隷から解放してくださったのに、何度も神に背きました(1-5節)。彼らは、偶像崇 拝、不道徳な行為、不平不満をつぶやくことで、自分たちを滅ぼしてしまいました(6-10節)。そこでパウロは、「立っていると思う者は、倒れないように 気をつけなさい」と警告しています(12節)。
クリスチャンは、誘惑に襲われたとき、「耐えられるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(13節)という神の約束に堅く立つこと ができます。私たちはみな、他の人をイエスに近づける影響力が与えられています。神が試練に耐える力をせっかく与えてくださったのに、もし誘惑に負けてそ の影響力を失ってしまうなら、何と悲しいことでしょう。