罪人が行くところ
私の友人は、あるとき、キリスト教を毛嫌いしている人と信仰の話をしていました。いかにもクリスチャンという証をしたら、ひどい拒絶反応が起こるだろうと分かっていた友人は、話の途中でこう問いかけました。「なあケンジ、じゃあ罪人はどこに行くか知ってるの?」
友人は答えました。「そんなの簡単さ。地獄だろ?」「いや。教会に行くんだ。」
予想外の答えに、ケンジはあっけにとられました。自分の不完全さを率直に認めるクリスチャンを前にして、どう返答すべきか分からなかったのでしょう。私の友人は証のチャンスを得ました。そして、クリスチャンは自分も罪深く、常に霊的に修復されなければならないと分かっている、と話しました。また、神の恵みについても説明することができました。神の恵みとは、罪人の私たちに分不相応な、神のあわれみの行為です(ロマ5:8-9、エペ2:8-9)。教会の外の人たちは、本来の教会をイメージできるでしょうか。「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得て」(コロ1:14)いると信じる人たちが、救い主をたたえるために集まっているところが教会だ、ということがうまく伝わっているでしょうか。そうではないかもしれません。
そうです。罪人は教会に行きます。そして、赦された罪人は、神の恵みによって天国に行きます。
涙の必要性
◆ 詩篇140-142
◆ Ⅰコリント14:1-20
ハイチで2010年に大地震が起こり、壊滅的な被害をもたらしました。この小国を襲った大惨事のニュースに、誰もが大きなショックを受けました。胸が張り裂けそうな多くの映像の中で、特に私の心を捉えた一枚の写真があります。ひとりの女性が、大きな瓦礫の山を見つめて泣いています。彼女は、同胞たちのあまりの苦しみに圧倒され、混乱していたのでしょう。ただ途方に暮れて、涙を流すばかりでした。彼女の気持ちは理解できます。ただ涙を流すことだけが、目撃した苦しみに対するふさわしい反応なのです。
平和と和解
◆ Ⅱ列王記1-3
◆ ルカ24:1-35
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。―マタイ18:33
アメリカ合衆国では、1865年に南北戦争が終結しました。この戦争で50万人以上の兵士が犠牲になり、経済は壊滅的な打撃を受けました。そして国民は未だ、政治的に分裂したままでした。母の日を祝う慣習は、この苦難の時期に、平和と和解のために尽力したふたりの女性によって広がりました。1870年、ジュリア・ウォード・ハウは、女性が団結してあらゆる戦争に反対する「国際母の日」を提唱しました。数年後、アンナ・リーヴズ・ジャービスは、戦争によって疎遠になった家族や隣人を再びひとつにするために、年に一度、「母によるフレンドシップの日」を始めました。家族や友人の関係にひびが入り、互いに赦し合うことができないなら、そこには常に大きな苦しみが伴います。
帰っていきなさい
◆ イザヤ書7-8
◆ エペソ2
わたしは彼らの背信をいやし、―ホセア書14:4
イスラエルの人々は信仰から離れ、堕落していました。そして、そのことがどれほど自分を傷つけているか、神はホセアを用いて人々に示そうとされました。というわけで、ホセア書の最初の数章はかなり奇妙な物語です。神は預言者ホセアに、ゴメルという名の売春婦と結婚するように命じられました。そして、不貞な妻に忠節を尽くす夫として、世の人たちの見せ物にされました。イスラエルの人々が霊的に不実であるために、神がどれほど辛い思いをされているのか、ホセアは身をもって体験しました。
エリンが教えてくれたこと
◆ 詩篇40-42
◆ 使徒27:1-26
主は情け深く、あわれみ深く、 ―詩篇145:8
エリンの生活は普通の子どもとはかなり違っていました。他の子どもたちは、走り回って遊んだり、アイスクリームを食べたりしているのに、エリンはベッドに横たわり、食事は栄養チューブからです。強い光しか見えず、大きな音しか聞こえません。生活の大部分は病院通い、看護師、注射に占領され、数々の慢性疾患や重い障害と闘っていました。エリンは、思いやり深く世話をしてくれる愛に満ちた家族に囲まれていましたが、9歳の誕生日を迎える前に亡くなりました。彼女はお絵かきをしたり、歌をうたったり、おしゃべりをすることもありませんでした。