きまりが悪い時
パトカーの回転灯が回っていたので、交通違反の車が道路わきに止められていることに気づきました。違反キップの綴りを手に警察官がパトカーに戻っていったとき、その車の運転席で、きまり悪そうに途方に暮れているドライバーが見えました。彼女は知り合いに気づかれるのを恐れてか、顔を手で覆っていました。それを見て、自らの過ちとその報いを人目にさらされるのは、実にきまり悪いものだと改めて気づきました。
尽きない恵み
シカゴのオヘア空港の中を歩いていたとき、「あっ」と思うものに遭遇しました。コンコースを走っていく人がかぶっていた、古い帽子です。その帽子にはずばり、「すべてを否定しろ!」と書かれていたのです。これは、どういう意味でしょう。自分の悪事は決して認めるな、ということでしょうか。あるいは、人生の楽しみや贅沢を拒絶せよ、ということでしょうか。私は首をかしげてしまいました。ずいぶん謎めいたメッセージです。
完全に消えるまで
ワルド・キャニオンで2012年6月に発生した山火事は、コロラド・スプリングス一帯の住宅346棟を焼失させ、山林7,300万ヘクタール以上に延焼しました。当局は、延焼を食い止めるために防火線を設け、山火事をその中に閉じ込めることができたと発表しましたが、その地域は完全な鎮火が確認されるまで、他の地域と分断されていました。当局は、まだその地域で煙が上がる可能性があるとして地元住民に注意を促しました。火は小康状態になっただけで、完全に消えているわけではないからです。
忘れないで
物質的な豊かさを罪悪視して、物を所有すること自体が悪だという考え方に、私は賛成できません。また、自分には消費者的志向があることも認めざるをえません。私は、個人的な感情で「欲しいもの」を「必要なもの」にしてしまう誘惑にしばしばかられます。
自尊心との戦い
古代ローマの将軍が戦争に勝って帰還すると、戦勝パレードが行われました。その行列には軍の兵士たちと一緒に、勝利のしるしとして連れ帰った捕虜や戦利品も加えられました。そして、パレードが町中を通ると、群衆は英雄の成功に喝采をおくりました。
遅い到着も 大歓迎
ある晩、老人ホームを訪れると、トムという名の入所者が部屋からそっと出て来て、私のところに来ました。しばらく雑談をしてから、彼は尋ねました。「これほど年をとってからクリスチャンになるなんて、神に失礼ではありませんか。」このような質問は、驚くに値しません。私はチャプレンですが、年配の人、依存症の患者、また前科のある人たちから、表現は違っても、よく同じような質問をされます。彼らは、自分たちはもう手遅れで、神を信じたり、神に用いられたりということが、できるはずはないと思っています。
安全ベルト
私ならば絶対にしないことに、最近トライした同僚がいます。バンジー・ジャンプです。その同僚の話は、興味深くも恐ろしくもありましたが、ゴムロープ一本で吊るされ、何十メートルもの高さから真っ逆さまに飛び降りるなど、どう考えても楽しいとは思えません。それはさておき、同僚の話によると、ジャンパーはゴムロープだけではなく、ふたつ一組の頑丈な装着帯をつけていて、それが命綱なのだそうです。確かな設計と過酷なテストをクリアした安全ベルトをつけることによって、彼は安心して谷に向かって飛び降りることができたのです。
神の恩寵
ロバート・ロビンソン(1735~1790年)は若い頃、不良仲間といろいろな悪さをしていましたが、17歳のある日、マタイの福音書3章7節を主題聖句としたジョージ・ホイットフィールド牧師の説教を聞いて、キリストを信じて救われなくてはならないと自覚しました。主イエスはロビンソンの人生を変えてくださり、彼は牧師になりました。また、讃美歌も作詞していますが、中でも有名なのは聖歌273番「いのちの泉に」です。
私は、この聖歌に記されている神の驚くべき恩寵(おんちょう)について、このところ思い巡らしています。作者は、恵み深い神の恩寵が非常に大きいことを賛美していますが、それは、パウロの次の言葉に通じています。「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる…キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」 (Ⅱコリ5:14-15)。
自分が何かをした見返りとして神の愛や恩寵をいただくことはできません。むしろ、神が私たちに惜しみなく慈愛をほどこされるので、私たちは自らの生涯をささげて、この神を愛さずにはいられないのです。それが具体的にはどんな姿になるのかは分かりませんが、神のみそば近くを歩み、みことばに耳を傾け、神に仕え、従うことは含まれているでしょう。また、そうさせる動機は、愛と感謝です。
私たちはキリストに恩義があります。ですから、日々イエスのために生きていきましょう。このお方はご自分の命を捨てて私たちを救ってくださったのですから。
良い人
ジェラルド・スティーブンスの告別式で、「ジェリーは良い人でした…妻に誠実を尽くし、良き父、良き祖父でした。軍人として国に仕え、良き友でもありました」と、牧師は語りました。ところがそれに続けて、「ジェリーの善良な生き方や良い行いは、彼が天国に行くことを保証するものではありません」と言ったのです。もしジェリーがこの場にいたなら、誰よりもはっきりとそのことを語るだろう、とも言いました。
ジェリーは、聖書の「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…」(ロマ3:23)や「罪から来る報酬は死です」(6:23)というみことばを信じていました。人生の終着点である永遠の居場所を決めるのは、自分が良い人であったか否かではなく、イエスが贖罪のために身代わりに死んでくださったという事実です。ジェリーは、各個人がこの神の無償の贈り物、つまり「私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち」(ロマ6:23)をいただかなくてはならない、と信じていました。
ジェリーは良い人でしたが、完璧ではありませんでした。私たちも同じです。私たちが救われるのは、ただ神の恵みによるのであって、人間の努力とは無関係です。それは「神からの賜物」(エペ2:8)です。
ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します(Ⅱコリ9:15)