Tag  |  苦しみ

木漏れ日

コロラドスプリングス在住の画家、ボブ・シンピッチの作品に、「光の跡」があります。秋の太陽に照らされた、黄金色のヤマナラシの木立を描いたものです。てっぺんの葉は、きらきらと照らされ輝いている一方で、下の地面は、日なたと日陰が混ざり合っています。シンピッチはこの明暗について、「木漏れ日が地面を照らす様子がたまりません。特別な雰囲気をかもし出すのです」と語りました。

決して裏切らない

子どもの頃、私は近所の公園のシーソーで遊ぶのが好きでした。シーソーの板の両端にそれぞれ子どもがひとりずつ腰掛けて、上下に跳ねる遊びです。ときどき、下に降りている方の子がじっと動かないので、もうひとりが宙ぶらりんになり、降ろしてよ、とわめくことがあります。一番ひどいのは、相手が上がっているときにシーソーを降りて逃げるいたずらで、それをされたなら、ガタンと地べたに落とされて痛い思いをするのです。

雲間に見える全体像

無声映画「つばさ」は、第一次世界大戦時にアメリカ軍の戦闘機パイロットになったふたりの青年を描いた1927年製作の映画で、第一回アカデミー賞を受賞しました。この映画の製作中、撮影が数日間止まりました。製作会社の人たちは苛立って監督に理由を尋ねました。すると監督は、「青空だからです。空中戦を見せるには雲が必要です。雲が無ければ奥行が出ません」と答えました。その通りです。空中戦の背後に雲が無ければ、映画を見る人にはスケールの大きさが分かりません。

順送り

長い間、人を見てきて気づいたことは、苦しみを体験した人たちは、苦しんでいる人たちにすぐに手を差し伸べるということです。子どもを亡くして苦しんでいた若い夫婦に手を差し伸べたのは、自分たちも子どもを亡くしたことのある夫婦でした。収入の当てを失った夫婦に即座に手を差し伸べたのは、過去に家や家財を差し押さえられ処分されてしまった夫婦でした。私は、互いに支え、互いに励まし合うキリストのからだを何度も目にしてきました。このクリスチャンたちは学びました。自分の辛い体験を用いて、同じような困難の中にいる人たちに手を差し伸べることができるのだと。

悪い知らせに打ち勝つ

多くの人が「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか」と言っている、というダビデのことば(詩4:6)は、今日の私たちにありがちな悲観的な見方に通じているようです。新聞の一面やインターネット、テレビのニュースには、犯罪や事故、政治経済の混乱、著名人のスキャンダルなどが大きく取り上げられています。職場でも家でも、話題になるのは困ったことばかりです。これでは誰もが悲観的になってしまいます。もっとましなニュースが聞きたかったら、どこに行けばよいのでしょう。

神は、苦しみから解放してくださり(1節)、祈りを聞いてくださいます(3節)。ダビデは、神を仰ぎました。そして、状況が一時的に好転することを願うよりも、絶えることのない神の励ましに心を留めて、「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください」と祈りました(6節)。その結果は、「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています」(7節)という賛美です。

ダビデは王位に着く前も後も、生涯、敵に追い回されました。しかし、一日の終わりには「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」(8節)と言うことができました。

詩篇4篇が語る神の守りという真理を、1日の始めや終わりに思いめぐらすことは、ふさわしいことです。

苦悩を通して強められる

教会の礼拝を締めくくる祝祷に、ペテロの手紙第一5章10節、「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」が用いられることがあります。その際、「あなたがたをしばらくの苦しみのあとで」という部分が省かれることがありますが、なぜでしょう。苦しみ云々と言うのが、心地よいものではないからかもしれません。

しかし、苦しむことが起こったとしても、驚くには値しません。使徒パウロは苦しみを十分に知っていた人ですが、彼は「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」と語ります(Ⅱテモテ3:12)。

私たちが神に従順に暗い(Ⅰペテ5:6)、サタンに立ち向かっている(9節)なら、中傷されたり、誤解されたり、相手に都合の良いように利用されたりするかもしれません。しかし、苦しみには目的がある、とペテロは言います。その目的は「(あなたがたを)完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者と」することです(10節)。

クリスチャンを成長させるために、神は試練の道を与えられます。私たちは、それによって強くなり、未来の嵐にも耐えることができます。神に栄光を帰する勇敢な人生を歩みたいと願う人たちを神が支えてくださって、その志を全うさせてくださいますように。

価値あるものへ

アップル社の共同設立者であるスティーブ・ジョブズは、ガンと闘う中で次のように語りました。「もうすぐ死ぬという意識は、今までに巡り合った何よりも重要なツールだ。人生の大きな決断を助けてくれる。ほとんどすべてのもの、つまり、人の期待、自尊心、恥や失敗に対する恐れなどは、死を前にして剥がれ落ちていき、自分にとって本当に大切なものだけが残る。」彼の苦しみは、彼の選択に用いられました。

使徒ペテロが手紙に書いていることは、それとは対照的です。彼は、今の苦しみは自らの人生に永遠の価値を持たせるために用いなさい、と述べています。イエスの苦しみと死を知って信仰にいのちが吹き込まれ、イエスの御名を信じているがゆえの戦いや迫害を引き受けることができるように願っていたのです。手紙の読者たちはイエスを愛したので、苦しむことが当たり前になっていくでしょう。イエスの苦しみは、罪深い情熱を捨て去って、神のみこころに従順になる動機づけとして用意されていたのです(Ⅰペテ4:1-2)。人生に永遠の価値を持たせるには、はかない楽しみにふけるのをやめ、神を喜ばせることのために、自分の人生を使い果たさなければなりません。

イエスが私の罪を赦すために苦しみ、死なれたことを意識することこそが、今日、敬虔な人生を選択しようと自らを奮い立たせるために重要です。これを意識することこそが、自分の人生に永遠の価値を持たせるために大切なのです。

簡単なレシピは無い

孫の誕生日パーティーのために、妻はチョコチップ入りの大きなクッキーにデコレーションしました。彼女はレシピ本を調べて材料を調達し、一つひとつのステップに従ってクッキーを焼きましたが、シンプルなレシピだったので、すべてがうまくいきました。

人生もこうなら良いと思いませんか。シンプルなレシピに従うだけで、幸せな人生を謳歌できるなんて。

ところが人生は、そう簡単にはいきません。私たちは堕落した世界に生きているので、痛みや苦しみ、不正義や喪失を免れさせてくれるレシピはないのです。

苦しみのただ中にあるとき、私たちは救い主に個人的にかかわっていただいて助けていただかなければなりません。主は、この世に生き、私たちと同じ苦悩を体験されました。

へブル人への手紙4章15節は、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」と語ります。このみことばは、私たちを勇気づけてくれます。キリストは、私たちにいのちを与えるために死なれました。そして、私たちが辛い闇の中を通るときにも、最後までしっかりと支え抜いてくださるお方です。「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」と聖書が述べているとおりです(イザ53:4)。

人生の痛みを避ける簡単なレシピがないことを、イエスはご存知です。だからこそ、イエスは私たちのところに来てくださいました。悩みも苦しみも一切、このお方に委ねてみませんか。

完全な平和と休息

1年で聖書を!
◆ 民数記12-14
◆ マルコ5:21-43
聖書のみことば詩篇71:19-24

 
あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、―詩篇71:20

今日の聖書のみことば、詩篇71篇の作者は、多くの苦しみと悩みに遭いましたが、神は自分を再び生き返らせてくださると心の奥底で信じていました(詩71:20)。「再び生き返らせる」の文字通りの意味は、「再度、命のある状態にする」です。詩篇の作者は「(あなたは)私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。あなたが私の偉大さを増し、ふり向いて私を慰めてくださいますように」(20-21節)と述べています。苦難の人生がずっと続いていたとしても、天国に着いたときにはもう終わっています。