模範に励まされる
D.L.ムーディーの聖書講座が1800年代後半にマサチューセッツ州で行われたとき、ヨーロッパから牧師たちの一行がやって来ました。当時のヨーロッパの習慣では、ホテルの宿泊客は、寝る前に自分の靴を部屋の外に置きました。ホテルの従業員に靴を磨いてもらうためです。ムーディーはその習慣を知っていたので、外に出してある彼らの靴を見たときに、その必要を他の人に伝えました。ところが、誰も動こうとしません。それでムーディーは靴を全部集め、自ら磨きました。ある日、友人が不意に彼の部屋にやって来て、ムーディーがしていることを目撃しました。するとその話が広がり、持ち回りで靴を磨くようになりました。
上から降りる
階段の上にいて降りるのを怖がっている一匹の子犬を、ビデオカメラが映していました。下には「がんばれ」と応援している人たちがいましたが、子犬のデイジーは、どうしてよいのか分かりません。みんなのところに降りて行きたくてたまらないのに、怖がって上でウロウロするばかりです。するとサイモンという大きな犬が助けに行きました。サイモンは階段を上ると、「ほら、簡単だよ」と言わんばかりに降りてみせました。しかし、デイジーはもじもじしています。サイモンはもう一度、今度はゆっくりとやってみせました。そして、デイジーが踏み出すのを待ちます。しかし、デイジーはまだ怖がっていました。サイモンはもう一度、デイジーのそばまで階段を上って行き、降り方を示しました。ついにデイジーは勇気を奮い起こして、前足を出し、後ろ足を前足に引き付けました。その間、サイモンはデイジーのそばから離れませんでした。ついにデイジーは降りることができました。みんな拍手喝采です。
無用のプライド
年をとった悪魔が訓練中の若い悪魔に、クリスチャンの注意を神から教会の人たちにそらせるように強く促しています。これは、C.S.ルイス著「悪魔の手紙」の一場面です。
賢い言葉
私は60歳代になった今、自分に良い影響を与えてくれた賢い先生たちを思い出します。聖書学校(大学)では旧約聖書学の教授の指導によって、聖書のみことばが臨場感をもって私の心の中で生き生きと躍動するようになりました。ギリシャ語の教授は厳しく、彼が設定する基準は非常に高かったので、私は必死で新約聖書を学びました。卒業後に派遣された教会の主幹牧師は、私が教会員の霊的成長を支えることができる牧師になるように、親身になって世話をしてくださいました。これらの先生方は、それぞれの形で、私を後押ししてくださいました。
悲劇的欠点
文学の世界には、悲劇の主人公に性格的な欠陥があり、それが彼(彼女)を破滅に追い込んでいくというパターンがあります。これを「悲劇的欠点」と呼びますが、聖書のウジヤ王の場合は、まさにそれでした。ウジヤは16歳にしてユダの王となり、長い間、主を追い求め、主に従いました。神はそのようなウジヤに繁栄をお与えになりました(Ⅱ歴26:4-5)。ところが、変化が現れました。それについて聖書は次のように語っています。「彼の名声は遠くまで広まった。彼が驚くほど神の助けを得て強くなったからである。ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った」(口語訳 15-16節)。
ウジヤは神の命令に背いて、自らが祭壇で香を焚こうとし、主の神殿に入りました(16節)。おそらく、自分だけは特別で、神が全人類に与えられた戒めからも除外してもらえると思うほどに、心が高ぶっていたのでしょう。祭司はウジヤを諭そうとしましたが、ウジヤは居直って激しく怒りました。そのとき、神がウジヤにツァラアトを与えられたのです(18-20節)。
文学でも、現実の世の中でも、良い評判を誇った人が面目を失い、自分の名を汚し、苦しむのを見ることがあります。聖書は「ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され、ツァラアトに冒された者として隔ての家に住んだ。彼は主の宮から絶たれたからである」(21節)と語ります。
称賛の甘い蜜が、おごりという毒に変化しないように注意すべきです。そのためにできる唯一のことは、謙虚な心で神に従うことです。
指導者のしるし
寒さの厳しいある冬の日、パデュー大学キャンパスのクラブ・ハウスの前で、ふたりの学生を見かけました。彼らは歩道に張った厚い氷をコツコツ削っています。クラブの先輩に辛い仕事を言いつけられた下級生だろうと思って、「先輩の命令かい。ずいぶん厳しいね」と話しかけると、ひとりが顔を上げてにっこりしました。「いえ、私たちは上級生です。私はクラブの副部長で、この友だちが部長です」と答えました。私は、彼らの働きぶりに感謝を述べてから歩き出しました。それは、人に仕えることこそ真の指導者のしるしだということが、思い出された経験でした。
イエスの弟子ふたりが、来るべき神の御国で主の右と左に座ることを求めたとき、イエスは十二使徒の全員を集めて、「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」と言われました(マコ10:43-44)。イエスは、ご自分の言葉をちゃんと理解していなかった者たちのために、念を押されたのです。仕えられるためではなく仕えるため、そして、罪の力から私たちを救う贖いの代価として自分のいのちを与えるために、イエスはこの世に来られました(45節)。
真のリーダーシップ、また神に似せられたリーダーシップとは、権力や特権ではなく謙虚に奉仕することです。神は、人々が主の道に歩むように、主の模範に従って指導する力を私たちに与えてくださいます。
イエスのように
教会学校の先生が、十戒の第一戒、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出20:3)について話しました。彼女は「神さまより大切なものを作ってはいけませんよ。お菓子も宿題も、テレビゲームもね」と例を挙げて説明しました。そして、神を第一とするとは、聖書を読み祈る時間を、何よりも優先させることだと教えました。
すると、上級生のひとりが示唆に富む質問をしました。クリスチャンでいるとは、戒めを守ることか、それとも、神が自分の生活全体に関わろうとされていると考えることか、どちらですかと尋ねたのです。
私たちは時々、聖書をルールブックのように捉えるという間違いを犯します。確かに神に従うことや(ヨハ14:21)、聖書を読んだり、祈ったりする時間は大切です。しかし、言いつけを守らなければならないから、これらをするのではありません。イエスと天の御父は互いに愛し合う関係でした。私たちも神と個人的な関係を結ぶと、神と一緒に過ごすことや、神に従うことを強く願うようになります。そして、だんだんイエスに似てきます。ヨハネは、「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」と語りました(Ⅰヨハ2:6)。イエスは、私たちが従うべき模範です。
どうすれば愛せるのか、どうすれば謙遜になれるのか、また固く信じられるのか。そして、どのように優先順位を決めていけばよいのかなどにについて知りたいときは、イエスを見て学びましょう。そして、イエスに従いましょう。
私が発明した
カナダ人のウィラードS.ボイル氏は、デジタルカメラやハッブル望遠鏡に組み込まれた電子センサーの共同発明者で、ノーベル物理学賞を受賞しました。あるとき、彼は新しいデジタルカメラを購入しようと、ノバスコシア州ハリファックスの、とあるカメラ店に行きました。カメラ店の販売員はボイル氏にカメラの精密さを説明しようとしましたが、途中でやめてしまいました。