本当のもてなし
私は1987年にカリフォルニア州のロングビーチの教会に赴任することになり、家族で南カリフォルニアに引っ越してきました。教会の秘書が空港まで迎えに来てくれて、私たちを牧師館まで送ってくれましたが、空港から外に出て最初に目に飛び込んできたものは、「カリフォルニアへようこそ…さあ、とっとと故郷に帰れよ!」という車に貼られたステッカーでした。陽光の降り注ぐ暖かい南カリフォルニアでしたが、その歓迎メッセージは決して温かいものではありませんでした。
さて、私たちもまた、このようなメッセージを周りの人に送ることがないでしょうか。教会や近所付き合い、または趣味の集まりなど、どんなグループにいたとしても、初めての人が居心地よいと感じられるように心を砕くことをせず、放っておいていないでしょうか。
パウロはローマ人への手紙12章13節で「もてなしなさい」と教えました。さらに、ヘブル人への手紙は、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」(13:2)と語っています。出会う人たちにやさしく親切にすることで、私たちは、救い主の招きを反映させています。つまり、「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(黙22:17)と聖書が語るとおりです。
温かくもてなしすることは、天国に続く道を示し、そこに向かって第一歩を踏み出す手助けをすることにつながるでしょう。
こっそり逝ったおじいちゃん
従兄弟のケンは4年もの間、癌と勇敢に闘いました。最後の日には、妻や3人の子どもたち、そして孫たちが、次々に病室にやって来て、特別な別れの時を過ごしていました。ところが、たまたま部屋に誰もいなかった数分の間に、ケンは永遠への旅に出かけて行ったのです。家族のみんながそのことに気づいたとき、幼い孫娘が、かわいらしく言いました。「おじいちゃんは、こっそり逝っちゃったんだね。」
ほんの少し前まで、神はケンと一緒にこの地上におられました。しかし、次の瞬間、ケンのたましいは、神とともに天国に移されました。
詩篇16篇は、ケンが好きだった詩篇です。自分の葬儀では、ここを読んで欲しいと言っていました。詩篇の作者ダビデは、神との個人的な関係ほど貴重な宝はないと語りましたが、ケンもまったく同感でした(16:2、5)。ダビデは、「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず…」と述べました(16:10)。神を避け所とするならば、死がクリスチャンのいのちを奪い取ることはできません。ダビデは、そのことが分かっていました。ケンであれ、誰であれ、イエスを救い主と信じる人は誰でも、死に捨て置かれることはありません。
イエスが死んで復活してくださったので、私たちもいつの日かよみがえります(使2:25-28、Ⅰコリ15:20-22)。そして、神の右には楽しみがとこしえにあることを知ります(詩16:11)。
再会する家族
◆ ヨブ記38-40
◆ 使徒16:1-21
私の住むコロラドスプリングスでは、「いのちを祝う同窓会」が29年間にわたり毎年催され、特別な人たちが再会しています。これは、コロラドスプリングス小児記念病院の新生児集中治療室にいた元患者が、医師や看護師、職員と再会する集会です。ベビーカーに乗った乳児もいれば、10代の若者もいます。子どもたちの両親も来て、彼らの生命を救い、生きるチャンスを与えてくれた人たちに感謝します。ガゼット紙のエドワード・パイク記者のレポートによると、病院のボブ・カイリー医師は「すべてのスタッフにとって、自分がなぜこの仕事を続けているのかを再確認させてくれるときです」と語ったそうです。
御子の再臨
◆ Ⅱ歴代誌17-18
◆ ヨハネ13:1-20
私はアイダホ州に住んでいますが、この「アイダホ」という名前は、原住民のショショーニ族の「イーダーホウ」という言葉に由来するという説があります。これを日本語に翻訳すると「見よ。太陽が山の上に昇っている」という意味です。朝日が東の山の頂に昇り、その光が谷間を照らして、命の息吹を感じさせてくれるとき、この伝承が私の心をよぎります。また、マラキ書には「義の太陽が上り、その翼には、いやしがある」(マラ4:2)と約束されていますが、これについても思い出します。これは、神の不変の約束です。私たちの主イエスが再臨され、被造物すべてが「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るのです(ロマ8:21)。