希望はあるか?
私は父の墓のそばに静かに座って、母の納骨式が始まるのを待っていました。司式者が母の骨壺を運んで来ました。私は放心状態で、感じることも考えることもできません。たった3ヶ月の内に父母を相次いで失い、どうすればよいのか分かりませんでした。深い悲しみの中で喪失感と孤独感が募り、ふたりのいない今後に不安を感じていました。
邪魔が入る
私たち姉妹は、台湾に旅行する計画を立て、航空券を買い、ホテルを予約していました。とても楽しみにしていたのに旅行の2週間前になって突然、予期せぬことが起こり、行けなくなってしまいました。計画に邪魔が入って、私たちはがっかりしました。
大災難日誌
イヴ・コンガールが10歳になったばかりのころ、第一次世界大戦が始まりました。ドイツ軍がフランスに侵攻し、彼の住んでいた町は占領されました。そんなとき母は、日記をつけてはどうかとイヴに勧めました。この日記は結果として、ドイツ軍占領下にあった町の生活をカラースケッチと物語でつづる、分かりやすい戦時記録になりました。彼の日記は、子どもの目で見た大災難の記録です。この体験は彼に大きな影響を与えました。イヴ・コンガールは、自分は神に召されており、キリストの希望をみんなに届けなければならない、と感じるようになりました。
デビッド、よくやった
デビッド・シュムは、脳性麻痺に侵されながらも楽天的で、忍耐強く、信仰深い人でした。私たちは彼の葬儀で、彼の人となりを心からたたえました。彼の74年の生涯は、日常生活の簡単な作業さえも労苦する大変なものでした。にもかかわらず、笑顔を絶やさず、病院で2万3千時間以上もボランティア活動をしたり、家庭環境に問題のあるティーンエイジャーを支える働きに携わったりしました。
デビッドは生前、自分の葬儀の聖書朗読は、イザヤ書35章3節~10節にしてほしいと言っていました。「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。…そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ』」(3-4、6節)。このみことばは、捕囚の身となったイスラエル人に向けて語られた神の約束です。私たちクリスチャンにとっては、キリストが再臨されるという希望を再確認させてくれるみことばでもあります。
デビッドは生涯最後の数週間、見舞いに来る人たちに、ベッド脇にあるイエスの大きな絵を指して、「主イエスはもうすぐ、ぼくを迎えに来てくれるよ」と話していました。これは、神の子どもたちすべてに賜った希望です。だから私たちは、イエスに感謝し、イエスを賛美するのです。
希望は誰のもの
近頃は、何を見ても驚かされまいと努めていますが、ショッピングモールで横を通り過ぎた女性のTシャツに書かれていた文句にはドキッとしました。太い活字で、「希望はおバカさんのもの」と書かれていたのです。確かに、うぶで乗せられやすいことは、愚かで危険です。根拠のない楽天主義が失望や傷心という悲しい結果を招くこともあるでしょう。だからと言って、希望を持たないようにするのは、あまりに悲観的でひねくれた人生観です。
聖書の希望は独特です。それは確かな信頼です。この世界の中で何かをしようと神が働いておられる、そして、「私」の人生の中でも神が働いておられると信じることです。これこそが、みんなが必要としているものです。ヘブル人への手紙の著者は、「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか」(ヘブ10:23)と記して、はっきりと希望の大切さを述べています。
聖書に根ざした希望を持つことは、愚かなことではありません。それにはちゃんとした根拠があるからです。私たちの神は真実なお方ですから、キリストを信じて手にした希望を、しっかりと握っていましょう。現在でも未来でも、私たちがどんなことに直面したとしても、神は信頼できるお方です。私たちの希望の土台は、永遠の愛をもって愛してくださる神の信頼できる品性です。あのTシャツの言葉は間違っています。「希望はおバカさんのもの」ではありません。希望は、あなたと私のものです。
栄光を受ける準備
牧師であり聖書の解説者であったマーティン・ロイドジョンズは、1981年3月1日、死の床にありました。彼は1939年から1968年まで、ロンドンのウェストミンスター・チャペルの牧師として仕えました。人生が終わりに近づいたとき、彼は話す能力を失っていました。そこで、これ以上自分の回復のために祈って欲しくないと知らせるため、「栄光に向かっていく私を、どうか引きとめないで」と紙に書いたのです。
人の命は大切ですし、この世を去って天国に行く家族や友人を見送るのは辛いものです。しかし、神は、いつ誰を御国に呼び寄せるか、決めておられます。詩篇116篇15節は「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」と語ります。
自分の死が近いと知ったとき、使徒パウロは、天国で自分を待っているものに励まされ、次のように述べました。「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」(Ⅱテモ4:8)。
私たちが今、人生の旅のどこにいたとしても、終着駅は主のみもとです。聖書は「実はそのほうが、はるかにまさっています」と語ります(ピリ1:23)。このみことばは、逆境に自信を持って立ち向かう助けとなります。また、キリストが準備された栄光の家に向けて旅立とうとする人たちを見送らなければならないとき、私たちの心を慰めてくれます。
死を考えることの力強さ
新年の計画や抱負について考えるとき、敬虔な先人たちのアドバイスがあります。それは、考えたくない事実、つまり、自分の死について考えてみなさいというものです。