Month: 10月 2012

津波のあとで

― 自然災害に襲われたクリスチャンが、聖書のみことばを通して考えたこと

この冊子の著者アジス・フェルナンド師は、国際的に信望の厚い聖書解説者であり、神学者です。また、スリランカのYouth For Christ (ユース・フォー・クライスト) の総主事でもあり、デイリーブレッド スリランカの理事でもあります。
私は彼を友として、また主にともに仕える同労者として尊敬しています。彼の神に対する愛、家族への愛、同僚への愛、そして伝道している人々に対する愛は、誰の目にも明らかです。
2004 年12 月26 日、彼の愛する母国スリランカを大津波が襲い、壊滅的な被害を与えました。フェルナンド師が神を愛する一市民としてまとめた考えが、ここに書かれています。(A6版 32ページ)

本当の愛 ―コリント人への手紙 第一 13章4~8節より―

誰もが愛を探し求めています。すべての人に愛が必要だと言います。しかし、愛とは何でしょう。本当の愛とは、どういうものでしょう。仮に愛を見つけたとして、どうやってそれが本物だと分かるのでしょう。

世間は、愛は生まれては消える感情で、言葉では説明できないと言います。しかし、聖書は時代を超えて語りかけ、朽ちることのない愛の真理を伝えます。

牧師であり聖書の講解説教の講師であるビル・クラウダー師は、私たちがコリント人への手紙第一13章4~8節を新鮮な気持ちで学べるように、この冊子を書きました。1980年代、「愛はかげろう。つかの間の命。」と歌ったグループがありました。しかし、クラウダー師は、聖書が真実だと信じるなら、愛は確かなものだと明らかにしてくれます。 (A6版 48ページ)

雄弁だが謙虚

自分の考えを相手に分かるように説明し、説得して自分に同意させてしまう、そんな話術の持ち主に感心させられます。そのような人のことを「口が達者」とか「説得力がある」とか言います。または「雄弁」とも呼ばれます。

アポロには、そのような才能がありました。彼は「雄弁(で)…聖書に通じていた」と記されています(使18:24)。アポロはイエスについて正確に語っていましたが、バプテスマのヨハネの洗礼を伝えていたにすぎませんでした。ヨハネの洗礼とは罪の悔い改めの洗礼です(18:25、19:4)。

アポロはイエスの教えを知っていましたが、イエスの死と復活、そして聖霊降臨については知らなかったのかもしれません(使2章)。聖霊に満たされて日々の力を得るということを知らなかったので、アポロの教えは不十分なものでした。

そこで、パウロの友人のプリスキラとアクラという夫婦がアポロを自宅に招待して、彼の間違いを正しました。アポロは立派な教育を受け、聖書を熟知していましたが、この夫婦の指導を謙虚に受け入れました。その結果、正しい理解のもとに伝道活動を継続することができたのです。

詩篇25篇9節は、神が「貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる」と述べています。私たちが謙虚な姿勢でいるなら、神に教えていただくことができます。また、神に用いていただくことができます。

信頼できる愛

何よりも傷つく言葉は、「もうあなたを愛していない」ではないでしょうか。この言葉はその人間関係に終止符を打ち、心を深く傷つけ、相手に対する期待を失わせてしまいます。このような裏切りによって、再び傷つくことがないように、二度と愛を信じまいと決心する人も少なくありません。すると、神の愛さえ拒んでしまう可能性があります。

神の愛が他と違うのは、決して尽きないという約束があることです。預言者エレミヤは絶望的な状況を経験して、精神的にまいっていました(哀3:13-20)。神の愛に応答して、神に従おう、というエレミヤの再三の頼みを、同胞が拒絶したのです。エレミヤは非常に落ち込んで、「私の誉れと、主から受けた望みは消えうせた」と言いました(18節)。

そのような最悪の状況でも、エレミヤは神の確かな愛に思いを巡らし、こう記しました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む」(哀歌3:22-24)。

仮に、永遠の愛を誓った人が、その約束を破ってしまったとしても、神の愛は揺らぎなく確かです。聖書は語ります。「あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(申31:6)。これこそ、信頼できる愛です。

感謝する

ミシガン州ランシングでは、冬に晴れることはめったにありません。けれども昨年、澄み切った晴天の日がありました。誰もが、神に感謝しているようでした。私が教会を出たとき、ひとりの男性が声をかけてきました。「本当にいい天気ですね。これは神さまの贈り物ですよ。」ところが私は、「でも、今週後半には、また雪が降るそうですよ」と答えたのです。何と否定的で感謝に乏しい発言でしょう。

使徒パウロは数々の手紙の中で、「感謝の神学」を深めるよう促しています。パウロは、新約聖書で感謝について誰よりも多く記しました。彼の手紙に「感謝」という言葉は49回も用いられ、その記述から、感謝について多くのことを学ぶことができます。

パウロの感謝は人にではなく、常に神に向けられています。人々は神からの贈り物であり、その人たちの愛や信仰、そして成長を、パウロは神に感謝しました(Ⅰコリ1:4、Ⅰテサ1:2)。また、すべての感謝は、イエスの御名によってささげられています(コロ3:15、17)。クリスチャンはすべての事について感謝すべきだとパウロは信じていました。神はすべてを支配されるお方であり、クリスチャンの益のために、すべてを取り仕切っておられるからです(Ⅰテサ5:18)。

自分の周りにある神からの贈り物に意識して目を留め、常に感謝しましょう。神が贈り物をくださったのです。「主よ、感謝します」と言うのは当然です。

収穫の日

秋の日の午後、車を走らせていると、巨大なコンバインが路肩に止めてありました。注意を呼びかける黄色い看板には、「収穫作業中」とありました。道路から畑を見渡すと、ここに何の種が蒔かれたかは一目瞭然です。とうもろこしの種です。農家の人がコンバインに乗って収穫しようとしていたのが、広大な畑に実ったとうもろこしだったからです。

とうもろこしの種を蒔くなら、いずれとうもろこしが実って、それを収穫するのは当たり前だと思うでしょう。しかし、私たちは信仰生活における種蒔きと刈り取りの関係を受け入れているでしょうか。使徒パウロは語りました。「思い違いをしてはいけません…人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラ6:7)。

自分の欲を満たす生き方をしているなら、他人のものを欲しがったり、自己中心的になったり、さらにはアルコールやギャンブル依存という状態にすら陥ります(5:19-21)。一方で、聖霊とともに歩むなら、平安、親切、自制といった御霊の実を結びます(5:22-23)。神のあわれみにより、私たちは「御霊のために」蒔き、永遠のいのちを刈り取る生き方を選び取ることができます(6:8)。

もしイエスが、今日、あなたの人生を刈り取ろうと宣言されたらどうでしょう。この一年、毎日どんな選択をしていましたか。その選択の実を集めなさいと言われたらどうでしょう。あなたは主に、何をお見せすることになりますか。

違いを乗り越える

何が正しいのか一致できないとき、どうすればよいのだろう。

自分が正しいと信じていることを、自分とは考え方の違う人たちを攻撃することなく主張できるでしょうか。または、相手に合わせてばかりいて、結局はキレてしまうこともあります。心に憤りを感じたら、それは何を意味しているのでしょう。

著者は、このような問題について聖書から学び本冊子を書きました。この学びによって、著者の人間関係に対する考え方は劇的に変化しました。それだけでなく、主に対する態度も大きく変わりました。この冊子が、読者の皆様のお役に立つよう祈ります。(A6版 48ページ)

見て待つこと

イザヤ18章では、全世界が神の民と戦おうとしているように思えます。しかし、全能の神はどのように対応されたでしょう。それは、「わたしは静まって、わたしの所からながめよう」でした(4節)。神が静まられたのは、神の民に対するたくらみを容認なさったからでしょうか。いいえ、違います。神は時が満ちて動かれます。つまり、ご自身のみこころに則ったちょうどよい時に、神は動かれます。

イエスは動かれず、ラザロは4日間、墓の中にいました(ヨハ11:39)。イエスは彼の死を知らなかったのでしょうか。それとも、心配しておられなかったのでしょうか。いいえ、非常に心配しておられました。しかし、イエスは教えるべきことを教えるために、ちょうど良いときを待っておられました。

聖書には神の「遅れ」が記録されています。その多くは一見、説明できない「遅れ」のようです。しかし、そのどれもが、神の深い知恵と愛がもたらす「遅れ」なのです。何はともあれ、神の「遅れ」を受容するなら、そこには静かな品性が生まれます。それは、謙遜であり、忍耐力、辛抱強さ、粘り強さです。このような品性を育てるのは並大抵のことではありません。

あなたは悩んでいますか。神は遠いかなたにおられるように感じますか。神は、あなたの窮状に無関心ではありません。あなたの祈りに心を留めておられます。神はご自分の目的が達成されるのを待っておられます。ですから、その時が来ると介入されます。神は決して急がれませんが、手遅れになることも絶対にありません。

未使用のギア

初めて乗った自転車には、ギアはひとつだけでした。スピードが速くても遅くても、登り坂でも下りでも、同じギアだけです。次の自転車には、3つのギアがありました。平坦な道、上り坂、そして下り坂用です。3台目の自転車には10個のギアがついているので、いろいろな選択をすることができます。しかし、いくつもギアがあるからといって、全部のギアを毎回使うわけではありません。スタート時や上り坂に最適なギアがあり、加速したいときに使うギアがあり、ゆっくり走りたいときに使うギアもあります。ですから、ギアに関して言えることはこうです。すべてのギアが常に使用中なのではありません。あるギアは、今はいりません。しかし、今は不要だからといって、今後も不要だとは言えません。

私たちの霊の賜物や、奉仕に用いる技術についても同じことが言えます。以前は〇〇の賜物を用いてうまく仕えていたのに…と思うようなとき、自分はもう役に立たなくなったとか、ありがたいと思ってもらえない、などと考えてはいけません。今、使っている「ギア」を神に感謝しましょう。ひとつの賜物が今は必要とされていないからといって、それがずっと不要だとは限りません。

状況やニーズには常に変化が伴い、予測不能です。また、必要とされる霊の賜物はその折々に違ってきます。使徒パウロはテトスに「いつでも良いわざをする用意が」あるようにと勧めました(テト3:1  口語訳)。私たちも、そのようにしていましょう。