食べそこなったランチ
食事は私にとって、ただの必要でなく、人生の大きな楽しみのひとつです。食卓について美味しいご飯をいただくのは、本当に嬉しいのです。お腹がすいているときにはなおさらです。
さて、イエスの弟子たちは戻ってきて、先生がサマリヤ人の女性と井戸端で話しているのを見ました。彼らは昼食を食べていなかったので、お腹がすいていたのでしょう。イエスに、「先生。召し上がってください」と言いました。ところが、主のお答えは「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」だったので、彼らは「だれか食べる物を持って来たのだろうか」といぶかったのです(ヨハ4:31-33)。
弟子たちは食事にこだわるあまり、自分たちが楽しく時を過ごすこと以外は思いつかず、井戸端で行われていたことの重大性を認識できなかったのでしょう。主イエスにとって最も重要なことは、「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げること」(34節)でした。ですからイエスは、この女性の霊的な必要に焦点を合わせていました。彼女が渇望している霊の満たしを与えることができるのは、主イエス以外にはおられないからです。
私たちは、目下の必要にとらわれがちです。しかし、自分にとって「おいしいもの」ばかりに気を取られるのではなく、しっかり目を開けて、心を満たすものを求めて探している人がいることに目を向けなさい、とイエスは教えておられます。
井戸端にイエスとともに立ちましょう。そして主イエスに用いていただいて、主だけが与えることのできる霊の糧があることを人々に語っていきましょう。
見捨てられていない
何年も前、夫婦でワシントンDCにあるスミソニアン航空宇宙博物館を訪ねた時のことです。ホールに一台のベビーカーがぽつんと置かれ、そばには誰もいませんでした。たぶん持ち主はかさばるベビーカーを置いて、子どもだけを抱いていったのだろうと思いました。ところが、そばに寄ってみると、赤ちゃんが中で寝ているではありませんか。親はどこにいったのでしょう。兄弟、それともベビーシッターがいるのでしょうか。しばらく待ってみましたが、これは自分の大切な赤ちゃんだと言う人は現れません。それで、博物館の職員を呼び、赤ちゃんが安全なところで保護されるのを見届けて、その場を離れました。
このことがあって、「見捨てられる」ということについて考えさせられました。それは、この世の誰にも求められていないと痛切に感じることです。どれほどの悲しみでしょう。しかし、人が見離したとしても、神は違います。神の愛と臨在は確約されています。神は、決して私たちを見捨てないと約束され(申31:8)、どこへ行くときも共にいる、いつも必ず、世の終わるときまで一緒にいると言っておられます(マタ28:20)。
私たちは神の子どもであり、神がご自分の子に対する責任を放棄することはいっときとしてありません。神はいつもかかわっておられます。誰に捨てられても、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ロマ8:35-39)という神の約束を固く信じることができます。
確かな救い
イギリスを19世紀に治めたビクトリア女王が、あるとき、主日礼拝で大きく心を揺さぶられたそうです。礼拝の後、女王は司祭に、「この世の人生で永遠の確証を得ることはできますか」と尋ねました。ところが司祭は、答えることができません。一方、ジョン・タウンゼントという名の伝道者は、女王の質問を耳にし、よく祈った後、手紙を書きました。「恐れ多いことではございますが、この知らせを震える手で書いています。イエスが天に備えられた家で永遠に生きることの確証を今、得ることはできると存じます。女王陛下、どうかヨハネの福音書3章16節とローマ人への手紙10章9~10節をお読みいただきますよう、お願い申し上げます。」
2週間後、タウンゼントは手紙を受け取りました。そこには「記されていた聖書のみことばを、注意深く、祈り心で読みました。私は、キリストが私のために完成された御わざを信じます。そして、『わたしが行って、あなたがたに場所を備える』と仰せになったその家で、神の御恵みによって、あなたにお会いできると確信します。-ビクトリア」と書かれていました。
タウンゼントは、永遠のいのちの確証をこの世の人生の中で得ることができると確信していました(9節)。また、自分以外の人たちのことも心配していました。あなたの永遠の終着点について、ヨハネ3章16節とローマ10章9~10節は、どのような意味を持つでしょう。それについて、ぜひ考えてください。神は、自分の罪は赦されたという確信をあなたにあげたいと願っておられます。この世の生命が終わったなら、神と永遠に過ごすことができるのだという確信を、あなたに与えたいと願っておられるのです。
(Brent Hackett、RBCミニストリーズ カナダ ディレクター)
つづく
新約聖書の5番目に登場する「使徒の働き」は、イエスに任命された人たちのもとで、キリストの教会がどのように成長していったかの記録です。この書を「聖霊の働き」と名づけることができるという学者もいます。なぜなら、イエスに任命された人たちはさまざまな困難に直面するのですが、聖霊の力が、彼らを勇気づけていたからです。
イエスは天に上って行かれる直前、ご自分が選んだ人たちに対して、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と告げられました(使1:8)。このお言葉とともに、神の御業の物語の一章が終わり、新たな章が始まりました。神の御業の物語は今も継続中です。そして、私たちはその一部です。
「使徒の働き」には、ペテロ、ヨハネ、バルナバ、パウロ、ドルカス、ルデヤ、そのほか初代教会の時代に生きた大勢の忠実な証し人たちが描かれています。彼らは普通の人たちでした。神に頼って力をいただき、神のみことばを広め、神の愛を実践していきました。
この物語は、私たちによってつづいていきます。神を信じ、神に従い、イエスをみんなに知ってもらおうとする人たちの人生があるとき、神の贖いの物語に新しいページが加えられていきます。
本当のもてなし
私は1987年にカリフォルニア州のロングビーチの教会に赴任することになり、家族で南カリフォルニアに引っ越してきました。教会の秘書が空港まで迎えに来てくれて、私たちを牧師館まで送ってくれましたが、空港から外に出て最初に目に飛び込んできたものは、「カリフォルニアへようこそ…さあ、とっとと故郷に帰れよ!」という車に貼られたステッカーでした。陽光の降り注ぐ暖かい南カリフォルニアでしたが、その歓迎メッセージは決して温かいものではありませんでした。
さて、私たちもまた、このようなメッセージを周りの人に送ることがないでしょうか。教会や近所付き合い、または趣味の集まりなど、どんなグループにいたとしても、初めての人が居心地よいと感じられるように心を砕くことをせず、放っておいていないでしょうか。
パウロはローマ人への手紙12章13節で「もてなしなさい」と教えました。さらに、ヘブル人への手紙は、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」(13:2)と語っています。出会う人たちにやさしく親切にすることで、私たちは、救い主の招きを反映させています。つまり、「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(黙22:17)と聖書が語るとおりです。
温かくもてなしすることは、天国に続く道を示し、そこに向かって第一歩を踏み出す手助けをすることにつながるでしょう。
神の力強い御腕
友人のジョアンの夢は、ピアニストになってソロの演奏家か伴奏者として各地を回ることでした。しかし、大学でピアノを学んでいたとき、右腕に腱鞘炎を患って、演奏家に必要な強い腕力を失ってしまいました。それで結局、音楽史と文学の学位を取って大学を卒業しました。
ジョアンはクリスチャンでしたが、ここ数年間は神に背を向けて、自分勝手な道を歩んでいました。大学を卒業後、さらに困難な状況に見舞われると、彼女は、神が自分を呼び戻そうとなさっていると感じました。そして、主のみもとに戻ったのです。
結局、彼女の腕は癒されて強くなり、演奏家として旅をするという夢は実現しました。彼女は、「私は今、自分のためにではなく神の栄光のために演奏しています。神が手を差し伸べてくださったおかげで、私の霊性と腕力が回復されました。ですから、神から賜った才能を用いて神に仕えることができるのです」と語っています。
神は「伸ばした腕」(出6:6)によって、イスラエル人をエジプトの苦役から救うと、モーセに約束されました。反抗を繰り返すイスラエル人がこの約束を疑ったにもかかわらず、ご自分の約束を守られました(14:30-31)。神の力強い御腕は、私たちに向かっても差し出されています。私たちの状況がどう展開しようと、神は信頼できるお方です。神の子どもたちのために、みこころを成されます。私たちは神の力強い御腕を頼りにすることができます。
悪かった
義理の息子とスポーツ観戦に行ったとき、試合だけではなく人間ウォッチングもすることになりました。人間の良い面と悪い面の両方を見せてくれた人がいたからです。その人はスタジアムで迷子になって、自分の席に帰れなくなっていました。それで立って辺りを見回していたのですが、それが私たちの視界をさえぎるような場所でした。座っていた人は試合が見えないので、「どいてくれないか。見えないじゃないか」と言いました。するとその迷子の男性は、「そりゃ気の毒だな」と皮肉たっぷりに答えたのです。そして、もう一度言われると、今度は怒気を含んだ声で同じ言葉を繰り返しました。しばらくすると、その男性はようやくあっちに行きましたが、驚いたことにすぐに戻ってきて、見えないと文句を言った男性に、「さっきは悪かったな。実は席が見つからなくてイライラしていたんだ」と言ったのです。ふたりは握手をして、この件は友好的に片付きました。
彼らのやり取りを見て、私は考えさせられました。日々の生活の中で、自分の思うとおりにならなくてイライラし、キリスト者として恥ずかしい言動をしたことがあるかもしれません。もしそうならば、私たちは失礼をした相手に謝る勇気をくださいと、神に願わなければなりません。イエスによると、そうするか否かで、私たちの礼拝が受け入れられるかどうかが決まるのです(マタ5:23-24)。
和解を優先事項にしているなら、私たちは、神に栄誉を帰しています。天の父との交わりを十分に楽しむことができるのは、和解した後のことです。
靴ひもを結ぶ
ひとりの行動がグループ全体の運命を左右することがあります。ジャーナリストのセバスチャン・ユンガーは、従軍記者として部隊に同行取材をしたとき、そのことを認識したといいます。ひとりの兵士が、靴ひもが解けて地面を引きずっている、と叱り飛ばされました。それは見た目にだらしないからではありません。靴ひもが解けていることで、部隊全体を危険にさらすかもしれないからです。そんな格好で決定的な瞬間に転ばないと、どうして言えるでしょう。ユンガーは、これは自分のことだけではすまないのだと気づきました。
旧約聖書のアカンの話は、罪の影響は決して個人にとどまらないことを教えています。エリコの戦いで大勝利を収めた後、攻め取った町と戦利品をどうすべきか、神はヨシュアを通してはっきりと指示されました(ヨシ6:18)。人々は汚れたものから身をさけ、銀や金はすべて「主の宝物倉」に持ち込まなければなりませんでした(18-19節)。しかし、その命令は守られませんでした(7:1)。けれども、イスラエルの民全員が罪を犯したのではありません。たったひとり、アカンという人物だけが罪を犯したのです。ところが、彼の行為のために、すべてのイスラエル人が影響を受け、神の御名がはずかしめられました。
私たちクリスチャンは互いに結び合わされた関係で、各々の行為は、キリストのからだ全体に波及し、また、神の御名がたたえられるか否かを左右します。「靴ひも」はしっかり結びましょう。そうすれば、個人として、またキリストのからだ全体として、神に栄誉をもたらすことができます。その栄誉は、神が受けるべきものなのですから。
どんな人になるか
私の故郷は小さな町で、著名人はいませんし、華やかな場所もありません。これといって、することもない所です。けれども私は、この素朴で静かな土地で育ったことを、いつも感謝しています。
ある夜、私たち夫婦は仕事関係の夕食会に出席したのですが、そこで初対面の人に、出身地はどこかと尋ねられました。その人は私の答えを聞くと、「そんな場所の出身だなんて恥かしいですよね」と言いました。彼女が本気なのか冗談を言っているのかは分かりませんでしたが、私は「いいえ」とだけ答えました。
私の故郷は洗練された町ではないので馬鹿にされたのかもしれませんが、なくてはならないものはきちんとありました。町には教会があって、私の両親は「主の教育と訓戒によって」(エペ6:4)私たちを育ててくれました。
イエスもナザレという小さな町で育ちました。ナタナエルという男は「ナザレから何の良いものが出るだろう」(ヨハ1:46)と言いましたが、そこからイエスが出られたのですから、「いいえ、出ます」が正しい答えです。イエスの故郷は、取るに足らない集落だったかもしれませんが、イエスは歴史上で最も重要な人になりました。
どこで育つかが問題ではなく、どう育つかが問題だということは、個人的な経験からも、聖書の記述からも明らかです。出身地を比べられて落ち込むこともあるかもしれませんが、私たちは神にとって大切な人です。神は私たちを霊的に強め、神の知恵で満たしてくださいます。