泥にはまる
両親の墓に花をたむけに行ったとき、夫は、他の車が通れるように路肩に乗り上げて駐車しました。最近、長雨がつづき、そのあたりはぬかるんでいたのですが、帰ろうとして驚きました。タイヤが泥にはまって動けません。エンジンを吹かせば吹かすほど、車輪はどんどん泥に沈んでいきました。車を押す人が必要でした。しかし、夫は肩を痛めていたし、私は退院したばかりでした。離れたところに若者がふたりいるのが見えたので、私は必死で手を振り叫ぶと、彼らは、すぐに来てくれました。そして感謝なことに、力を合わせて、車を道に戻してくれました。
知恵を求める人
大学では、勉学を終えて学位を修得した学生のために、毎年、卒業式を行います。卒業証書を受け取って壇上を降りる卒業生を待っているのは、生易しい社会ではありません。学問だけでは不十分です。人生の成功は、学んだことを賢く適用できるか否かにかかっています。
傷心からの再出発
クロアチアの首都ザグレブにある「失恋博物館」には、世界各地から匿名で寄贈された失恋の品が陳列されています。自分を捨てた恋人の家具を壊したときに使った斧があります。ぬいぐるみ、割れた額縁に入ったラブレター、ウェディングドレスなど、心の痛みを切々と伝えるものばかりです。自分の痛手を思い出して涙しながら去る人がいる一方で、決して裏切らないと、抱き合って互いに誓うカップルもいます。
目を離さない
信仰が育っていくようにと助けている人を指して、「私の弟子」と言っている人がいました。クリスチャンはみな「弟子づくり」という仕事を託されていますが、それは、キリストの福音を伝え、信仰が養われるように助けることです。ところが、つい自分中心に考えがちです。
偉大な癒やし主
知り合いの医師はみな頭が良く、よく働き、思いやりのある人たちです。どこが悪いか診断し、薬を処方し、骨を接合したり、傷を縫い合わせたりしてくれます。彼らは、私の苦痛を何度も取り除いてくれたので、その知識や技術には心から感謝しています。しかし、だからといって、私が神より医師を信頼するかと言えば、そんなことはありません。
一歩近づく
数年前、友人と一緒にホイットニー山にのぼりました。この山は標高4,421mで、合衆国本土で最も高い山です。私たちは夕方になってベースキャンプになる地点に到着し、寝袋を広げて少し休み、翌朝、日の出と共に山頂を目指しました。ホイットニー山は技術を要しませんが、17キロ以上の登り坂がつづく体力勝負の山です。
賛美の力
ウィリー・メリック少年(9歳)は自宅の庭で誘拐され、数時間、犯人に車で連れ回されました。ウィリー少年は自分がどうなるか分からなかったのですが、「エブリー・プレイズ」(すべて賛美)というゴスペルを歌おうと思いました。彼が繰り返し歌っていると、犯人は神を冒瀆する言葉を吐き、「黙れ」と言いました。しかしついに車を止めて、ウィリーを無傷のままで釈放しました。
愛という動機
ボビー・ジョーンズは1920年代のゴルフ界をリードしましたが、プロではありませんでした。「ボビー・ジョーンズ~球聖とよばれた男」という映画の中で、いつになったらプロに転向して金を稼ぐのかと質問される場面があります。その問いに対してジョーンズは、「アマチュア」という単語が「愛する」という意味のラテン語amoに由来することを説明します。彼の答えは明白でした。彼がゴルフをするのは、ゴルフを愛していたからです。
生存者の思い
韓国の旅客フェリー沈没事故の際に救出された71歳の女性は、自分が助かったことに自責の念を感じていました。多くの若い命が失われたのに、年配の自分が助かるべきだったのだろうかと、病院のベッドで語りました。また、もうダメだと思ったとき、自分を水中から引き上げてくれた青年の名前が分からないことを嘆いて、「せめて、その人に食事を御馳走したい。手を握り、抱きしめて、感謝の気持ちを伝えたい」と言いました。