間違いを正す
聖書のみことば:Ⅰサムエル記2:12、27-36
なぜ、あなたがたはわたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうち最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。―Ⅰサムエル記2:29
自らが母親でもあるカウンセラーのローリ・ゴットリーブは、子どもの幸せに執着する親は結果として子どもを不幸にしてしまうことがあると言いました。このような親は子どもを過保護にして、社会に出る準備をさせず、子どもの間違いに目をつぶり、厳しくしつけることをしません。
サムエル記第一では、大祭司のエリが息子たちの罪に目をつぶったことが分かります。息子たちが幼い頃、エリがどのような父親であったかは分かりません。しかし、成人した息子たちが神の宮の祭司としてふさわしくない行動をしたとき、彼は、きちんと対処することを怠りました。息子たちは自己中心的で、欲深く、反抗的であり、神のみことばや人々の必要よりも、自分のやりたいことを優先させました。エリははじめ、彼らを戒めましたが無視されました。エリは彼らを祭司職から解くべきでした。しかしそうはせず、現実から目をそらし、彼らの成すがままにしておきました。息子たちの罪のため、また、エリが神よりも息子たちを選んだ罪のために(Ⅰサム2:29)、神はエリの一族を裁くと告げられました(2:34、4:17-18)。
クリスチャンの親には、愛情をもってわが子をしっかりとしつけるという、恐れ多い責任が与えられています(箴言13:24、29:17、ヘブ12:9-11)。子どもたちに神の知恵を教えるならば、私たちは祝福されます。それは、子どもたちが神を畏れ、責任感のある大人に成長するように助けるという祝福です。—Marvin Williams
自分をすべて神に明け渡すことで、自分が神に造られた目的を生きることができる。子どもたちを叱らないことは、彼らを愛さないことだ。
今、おられますか
妻が難病にかかった時、イエスを信じる信仰による平安を手にして欲しいと思い、マイケルは福音を語りましたが、彼女は関心を示しませんでした。ある日、通りがかりの本屋で「神さま、今、おられますか」という本に目が留まりました。妻がどう思うだろうとさんざん迷いましたが、結局買って贈ると、驚いたことに、妻は受け取ってくれました。
ヘマンの正直さ
聖書のみことば:詩篇88
私のたましいは、悩みに満ち、私のいのちは、よみに触れていますから。―詩篇88:3
私は詩篇88篇を記したヘマンに感動させられます。彼は、「私のたましいは、悩みに満ち」ていると嘆きました(3節)。彼の人生は苦悩の連続で、苦しむことに疲れ果てていました。彼は人生を振り返って病の苦しみや不運を思いました。周りを見渡せば逆境の只中で誰からも見捨てられたと感じます。どこにも、慰めはありませんでした。「私は…心が乱れています」と彼は訴えました(15節)。彼は見放され(5節)、暗闇におり(6節)、悩み(7、15節)、見捨てられ(14節)ていました。トンネルの向こうに光はなく、彼の悲しみに解決はありません。
私は、ヘマンの正直さにほっとさせられます。悩まないクリスチャンがいるとしたら、なぜだろうと思います。もちろん程度の問題はあって、一日中、自分の悩みばかり話す人と一緒にいたいと思う人はいませんが、苦しんでいるのは自分だけではないと分かるとほっとします。
それに、ヘマンは正直なだけではありません。彼には、揺るがない堅い信仰があります。多くの試練に見舞われても、彼は神にしがみつき、朝も夜も神に叫びました(1、9、13節)。祈ることをやめず、けっしてあきらめませんでした。また、仮に見えなくても、神の真実、神の奇しいわざ、そして神の義(11-12節)が確かであることを、ヘマンは知っていました。
私はヘマンのような人が好きです。しっかり神にしがみついて、祈りをやめてはいけないと、私を励ましてくれるからです。—David Roper
祈りは何よりも希望を育てる土だ。
前の文章:間違いを正す次の文章:黄金律「生きて働かれる神:マレーシア初の女性議長誕生秘話」に戻る
決して滅びない
南仏で友人と休暇中のチャーチル元首相は、暖炉にあたりながら音を立てて燃える薪を見ていました。オズ・ギネスの著書「召し」によれば、チャーチルはその時「薪がうめいている。滅びゆくとはどういうことか、私には分かる」と言ったそうです。
黄金律
聖書のみことば:マタイ7:7-12
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。―マタイ7:12
自分がしてもらいたいように他の人にしてあげなさいという教えは黄金律で、多くの宗教で語られています。しかしイエスの独特なところは、今日の聖書のみことばの「それで」にあります。イエスはまず、天の御父の寛大さを表されたのです。
「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタ7:11-12)。
私たちはみな、すべきだと分かっていることを実行していません。すなわち、神が私たちを愛してくださったように人を愛していません。しかしイエスは、すべての人の罪のために死ぬことで、完全な愛で道徳的にも立派に生きるということを実践されました。
愛情深く与えてくださる神がおられます。このお方は、御子イエスを通して、ご自分の愛のすべてを啓示するために、ご自身の利益を脇に置いてくださいました。神の寛大さが、自分がしてもらいたいように人にしてあげるという行為の原動力です。クリスチャンは、人を愛し、人に与えます。なぜなら、「神がまず私たちを愛してくださったからです」(Ⅰヨハ4:19)。
天の御父は、神の規範に従って生きるように私たちに求められます。同時に、それを実行するための力と愛もくださいます。私たちはただ、神に求めればよいのです。—David H. Roper
私たちは黄金律を暗記したが、次はそれを実践しよう。