本当に生きる
それはイースターの翌週でした。前の週に、復活の物語を何度も聞いてきた5歳の息子ワイアットが車の後部座席で物思いにふけっていました。そして、運転席の私に「パパ」と呼びかけると、難問を尋ねるときのように一呼吸おいてからこう言いました。「イエスさまが僕たちを生き返らせるとき、僕たちは本当に生きているの、それとも頭の中だけで生きているの?」
リスクを冒す価値がある
理由も言わず長年の友が去り、私は気持ちを整理しようと、C.S.ルイスの『四つの愛』を再読しました。ルイスは、傷つくことをいとわないのが愛だと説き、そこに「安全な投資」はないと語ります。それを読んで、ヨハネの福音書21章の記述について、以前とは別の感慨を持ちました。
来て、礼拝せよ
多くの人が、世代を超え、気持ちよく賛美をささげていました。しかし、彼女は例外でした。泣きだしそうな赤ん坊をあやし、5歳の子に歌集を見せ、真ん中の子が走り出さないように押しとどめています。その時、後ろの席の年配の男性が、よちよち歩きの子の手を引いて会堂の中を歩こうと申し出ました。さらに、若い女性が上の子のために歌集を持ってくれました。状況は一変し、彼女は目を閉じて神を賛美し、礼拝しました。
職場でキリストを証しする
上司が「君のお気に入り企画に水を差したことをまだ怒っているの?」と聞くので、エブリンは「いいえ」と答えましたが、彼の軽薄な態度に苛つきました。多様な人材を巻き込んで会社に貢献しようとしたのに、無理でした。彼女は、涙をこらえて、彼の意向に従いました。変化をもたらせなくても、最善を尽くして働くことはできるはずです。
全てを変える
イェール大学で長年教鞭をとったヤロスラフ・ペリカン教授は、キリスト教史の権威と言われ、30冊以上の本を出版し、名誉あるクルーゲ賞を受賞しました。しかし、ある学生は、恩師の業績より、その臨終の言葉に最も感銘を受けたそうです。「もし、キリストがよみがえられたなら、他のことはどうでもよい。そして、もしキリストがよみがえられなかったなら……他のことは、どうでもよく空しい」。彼の言葉は使徒パウロの信念と同じです。「キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります」(Ⅰコリ15:14)。
死さえも
早世した友を惜しんで悲嘆に暮れる人がいました。死は、昔も今も、全ての人を打ちのめします。どんなに悲しんでも時間は戻せません。
平和の十字架
オランダ人現代画家のエグバート・モダーマンの作品「クレネ人のシモン」に感動しました。シモンの沈痛な表情は、彼が肉体的にも精神的にも大きな重荷を背負っていることを表しています。マルコの福音書の15章によると、北アフリカの都市クレネ出身のシモンは、無理やりに十字架を担がされました。
時は夜であった
エリ・ヴィーゼルの小説『夜』は、ナチスの死の収容所の体験に基づいています。物語の順序は出エジプト記の逆です。神の民は、過越の祭りの後、モーセに率いられて奴隷から解放されました (出12章)。一方、ナチスは過越の祭りの直後にユダヤ人の指導者たちを逮捕しました。
愛に支えられて
膝の上に乗った4歳の孫が、私のはげ頭を触りながらまじまじと見つめています。「じいちゃんの髪はどうなったの?」私が「だんだん無くなったんだよ」と笑って答えると、彼は神妙に「それは困ったね。僕の髪をちょっとあげなくちゃ」と言いました。私は、孫の優しさに笑顔で応じながら、彼をぎゅっと抱き寄せました。後日、このやり取りを思い出しました。そして、神の惜しみない犠牲的な愛について考えました。