Category  |  信仰

イエスのように

教会学校の先生が、十戒の第一戒、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出20:3)について話しました。彼女は「神さまより大切なものを作ってはいけませんよ。お菓子も宿題も、テレビゲームもね」と例を挙げて説明しました。そして、神を第一とするとは、聖書を読み祈る時間を、何よりも優先させることだと教えました。

すると、上級生のひとりが示唆に富む質問をしました。クリスチャンでいるとは、戒めを守ることか、それとも、神が自分の生活全体に関わろうとされていると考えることか、どちらですかと尋ねたのです。

私たちは時々、聖書をルールブックのように捉えるという間違いを犯します。確かに神に従うことや(ヨハ14:21)、聖書を読んだり、祈ったりする時間は大切です。しかし、言いつけを守らなければならないから、これらをするのではありません。イエスと天の御父は互いに愛し合う関係でした。私たちも神と個人的な関係を結ぶと、神と一緒に過ごすことや、神に従うことを強く願うようになります。そして、だんだんイエスに似てきます。ヨハネは、「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」と語りました(Ⅰヨハ2:6)。イエスは、私たちが従うべき模範です。

どうすれば愛せるのか、どうすれば謙遜になれるのか、また固く信じられるのか。そして、どのように優先順位を決めていけばよいのかなどにについて知りたいときは、イエスを見て学びましょう。そして、イエスに従いましょう。

思い出すための歌

うれしいことに、みことばにメロディーをつけた無料のCDが郵送されてきました。何回か聴いたあと、いくつかの旋律が耳に残りました。間もなくすると、詩篇の数節をCDに頼ることなく自分で歌えるようになりました。

音楽は、それがなければ忘れてしまうような言葉や思考を思い出させてくれます。神はモーセに言われました。イスラエルの民は約束の地に入ると神を忘れてしまうだろう(申31:20)。自分たちの神を捨て、偶像に向かい、その結果、わざわいを招くだろう(16-18節)。そうなったときのために歌を作りなさい。歌を作ってイスラエルに教えなさい。以前、自分たちは神と親密であったこと、また、その親しい関係を損なったのは、自分たちの罪であることを思い出すことができるようにしなさい(31:19-22)。たぶん、「主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である」(32:4)という神の品性を、イスラエルの民が思い出すようにしておくことが、最も重要だったのでしょう。

神は今日、何を覚えていて欲しいと、あなたにお望みでしょう。神の力でしょうか。神の神聖さでしょうか。それとも、神の愛、または、神のご誠実でしょうか。神の品性をたたえる賛美歌が心に思い浮かびますか。それを歌ってください。聖書は「詩と賛美と霊の歌とをもって…主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」と教えています(エペ5:19)。

栄光を受ける準備

牧師であり聖書の解説者であったマーティン・ロイドジョンズは、1981年3月1日、死の床にありました。彼は1939年から1968年まで、ロンドンのウェストミンスター・チャペルの牧師として仕えました。人生が終わりに近づいたとき、彼は話す能力を失っていました。そこで、これ以上自分の回復のために祈って欲しくないと知らせるため、「栄光に向かっていく私を、どうか引きとめないで」と紙に書いたのです。

人の命は大切ですし、この世を去って天国に行く家族や友人を見送るのは辛いものです。しかし、神は、いつ誰を御国に呼び寄せるか、決めておられます。詩篇116篇15節は「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」と語ります。

自分の死が近いと知ったとき、使徒パウロは、天国で自分を待っているものに励まされ、次のように述べました。「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」(Ⅱテモ4:8)。

私たちが今、人生の旅のどこにいたとしても、終着駅は主のみもとです。聖書は「実はそのほうが、はるかにまさっています」と語ります(ピリ1:23)。このみことばは、逆境に自信を持って立ち向かう助けとなります。また、キリストが準備された栄光の家に向けて旅立とうとする人たちを見送らなければならないとき、私たちの心を慰めてくれます。

祈りの力

妹が癌だと聞いたとき、祈って欲しいと友人に頼みました。手術のときは、癌がすべて取り除かれ、化学療法や放射線療法を受けずにすむように、と祈りました。神は、その祈りに「イエス」と答えてくださいました。手術の成功を友人たちに伝えると、ある人は「まあ、うれしい!祈りの力ね」と言ったのですが、私は「神が私たちの祈りに今回は『イエス』と言ってくださって感謝だわ」と答えました。

ヤコブは「義人の祈りは働くと、大きな力があります」と語りました(5:16)。しかし、「働くと、大きな力がある」というのは、熱心に祈れば祈るほど、あるいは祈ってくださいと頼んだ人が多ければ多いほど、その祈りはきかれるということでしょうか。私は今までに、「だめです」とか「しばらく待ちなさい」と神に言われたことが何度もありましたから、この考え方には疑問を感じます。

祈りには力がありますが、その力は不思議な力です。私たちは信じなさい、と教えられました。大胆かつ熱心に、そして辛抱強く祈り、最後には、神のご決断に従いなさいと教えられました。知者である神が答えられたので、それが最善の答えです。「あなたの気持ちを話しなさい」と神が言ってくださること自体が感謝ですし、祈りの答えが何であれ、神が良いお方であることに変わりはありません。

私はオー・ハレスビーの言葉が好きです。「祈りと無力さは切り離すことができません。無力な人だけが本当に祈ることができるのです。…無力さから出る祈りこそが最高の祈りです。」自分が無力であることを認めましょう。

解決済み

私はサッカーを見るのが大好きで、イングランド・プレミアチームのリバプール(愛称は「レッズ」)のファンです。ですから、レッズの試合はハラハラ、ドキドキしながら見ています。ひとつのゴール、ひとつのミスプレーが勝敗を左右するので、観戦中は興奮しています。このスリルがたまらないのです。ところが先日、レッズの試合の録画を見ました。何と平安な心で、それを見られたことでしょう。すでに結果が分かっているのですから、リラックスして選手の動きを見て楽しむことができました。

人生は、スポーツの試合の生中継を見るようなものです。将来のことは分かりません。ショックなことや、思いがけないこと、いらいらしたり、不安に感じることがあります。なぜなら、私たちには結末が見えないからです。ところが、クリスチャンには慰めが与えられています。この世の人生で起こる多くの事柄の結末は分かっていませんが、永遠という最終的な結末は、イエス・キリストの御業によってすでに決まっているからです。

使徒ヨハネは「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」と述べています(Ⅰヨハ5:13)。人生には思いがけないことが起こるかも知れませんが、私たちにはキリストの御業による平安があります。私たちの永遠という最終的な結末は、キリストによってすでに決まっています。

目撃者の証

ザ・デイ・オブ・ディスカバリー(RBCミニストリーズ制作)が、テレビの伝記番組を作るとき、制作スタッフはその人をよく知る人に会って思いを語ってもらいます。そのインタビューは、スタッフにとって祝福です。この番組は長年にわたって続いているので、私たちは「炎のランナー」のモデルと言われるエリック・リデル師と中国の捕虜収容所で同室だった男性や、第二次大戦中にC.S.ルイス宅に下宿していた当時10代だった女性、また黒人奴隷の子として生まれながらも米国の農業に大きな業績を残したジョージ・ワシントン・カーバー博士がアメリカ南部を講演旅行した際の運転手などに会って、話を聞きました。この人たちはみな、それぞれの特別な思い出を生き生きと語ってくれました。

十二使徒のひとり、ヨハネは、晩年に書いた手紙の冒頭で、自分はイエスの共同生活者であり、イエスの生き方や御業の目撃者であると述べ、「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです」と記しています(Ⅰヨハ1:2)。また手紙の目的を「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」(3節)、「私たちの喜びが全きものとなるためです」(4節)と記しました。

目撃者である使徒たちの証言は、私たちを信仰に導いてくれます。私たちは、彼らのように自分の目で見ていなくても、信じることができます。

罪人が行くところ

私の友人は、あるとき、キリスト教を毛嫌いしている人と信仰の話をしていました。いかにもクリスチャンという証をしたら、ひどい拒絶反応が起こるだろうと分かっていた友人は、話の途中でこう問いかけました。「なあケンジ、じゃあ罪人はどこに行くか知ってるの?」

友人は答えました。「そんなの簡単さ。地獄だろ?」「いや。教会に行くんだ。」

予想外の答えに、ケンジはあっけにとられました。自分の不完全さを率直に認めるクリスチャンを前にして、どう返答すべきか分からなかったのでしょう。私の友人は証のチャンスを得ました。そして、クリスチャンは自分も罪深く、常に霊的に修復されなければならないと分かっている、と話しました。また、神の恵みについても説明することができました。神の恵みとは、罪人の私たちに分不相応な、神のあわれみの行為です(ロマ5:8-9、エペ2:8-9)。教会の外の人たちは、本来の教会をイメージできるでしょうか。「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得て」(コロ1:14)いると信じる人たちが、救い主をたたえるために集まっているところが教会だ、ということがうまく伝わっているでしょうか。そうではないかもしれません。

そうです。罪人は教会に行きます。そして、赦された罪人は、神の恵みによって天国に行きます。

十分に整えられる

医療用メスの開発者でスイス人のカール・エルズナーは、何年もかけて軍仕様のナイフを制作しました。19世紀のことです。このスイスアーミーナイフは、その鋭い切れ味と多機能性で今日でも多くの人に知られています。小刃、金属のこぎり、はさみ、ルーペ、缶切、ドライバー、定規、ボールペンなど、多彩なツールがセットされていて、野外でキャンプをする人たちに、「これがあれば大丈夫」と感じさせてくれるのです。

私たちクリスチャンにも、罪にまみれたこの世を正しく生き抜くために、「これがあれば大丈夫」と感じさせてくれる何かが必要です。そのために、神はご自身のみことばをくださいました。パウロはこう語っています。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモ3:16-17)。

「整えられ」ると訳されている単語は、「完全に適応させる」または「きちんと取り付ける」という意味です。聖書は次のようにして私たちを整えてくれます。第一に、「教義」という霊的真理が与えられます。次に、私たちの不完全な部分を示し「戒め」てくれます。さらに、私たちが罪を犯したとき、それを示して「正して」くれます。最後に、正しい人生を生きるために「指導」してくれます。

神のみことばほど価値あるツールはありません。みことばは、私たちが信仰者として歩み続け、霊的な成長を遂げるために不可欠なものです。

何のかかわりがありますか

母の日礼拝などで特別賛美をするとき、子どもたちが指揮者に注意を向けることはありません。もじもじしたり、隣の子をつついたり、会衆の中に親を探そうときょろきょろしたりします。もちろん、口を動かして歌っているときもありますが、それでも指揮者を見てはいません。とはいえ、このような子どもの様子は可愛らしいものです。

一方、大人の聖歌隊は違います。全員がきちんと指揮者に注目しなくてはなりません。美しい賛美は、こうしてひとつになることによって初めて可能だからです。

私たちクリスチャンは、子どもたちの特別賛美のようではないでしょうか。まわりの人に気を取られて、人生の指揮者であられるイエスにしっかりと注目していないのではないでしょうか。

イエスは、ペテロのこのような態度を正されました。ペテロは、自分の将来について聞かされた後、「この人はどうですか」と尋ねました。するとイエスは「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と答えられました(ヨハ21:21-22)。

私たちは、人のことが気になって心が乱れることがあります。自分に備えられた神のご計画を他人のものと比べて、うらやましく思うことがあります。しかし、すべての人に備えられた神のご計画の本質は同じです。それはすなわち、イエスに従うことです。イエスをしっかりと見つめましょう。そうすれば、他人のことを気にして心を乱すことはなくなります。