罪をやっつけた正義の味方
少し前ですが「あなたが罪を犯さないでいられた、一番長い期間とはどのぐらいですか。一週間、一日、それとも1時間ですか」と尋ねられました。なかなかきびしい質問です。正直な人なら、罪を犯さなかった日は一日もないと言うでしょう。しかし、この一週間を振り返って、神に「〇〇の罪を犯しました」と告白したことがあるかというと、それは無いかもしれません。そういう場合でも、この一週間、思いでも行いでも、まったく罪を犯さなかったと言うなら、それは自分を欺いていることになります。
窓に映るもの
アラスカで休暇を過ごしましたが、移動中の車の窓からたくさんの風景を見ました。暖かく、雨や霧に濡れることもない車内から、美しい景色を見ることができるのは感謝なことです。しかし、窓ガラスには課題もあります。雨が降ると、窓にしたたる水滴で視界がぼやけます。また、気温の変化によって窓の内側に結露ができ、外が見えづらくなるのです。
解放の原則
ゲイル・ブランキは自著「今すぐ50個手放しなさい!」で、「手放しのルール」として、人生から「がらくたの山」を一掃する方法を記しています。最初の原則はこれです。「もし、それを見ると落ち込んだり、ひっかかったり、自分で自分が嫌になったりするなら、それを捨てるなり、誰かにあげるなり、売るなりして、自分の前から消し去りなさい。そして、前進しましょう。」
警告の標識
巨大なコンクリートの手指が、半ば砂に埋もれながら、空に向かって伸びています。これは、ウルグアイのとある砂浜の風景です。地元の人たちが La Mano(手)と呼ぶこの造作物は、海で溺れた人を覚える記念碑です。泳ぎに来た人たちに水難の危険を警告する目的で、チリ人アーティストのマリオ・イララザバルによって作られました。La Mano は観光名所となりましたが、本来の目的は今でも、海が危険であることを海水浴客に思い出させることです。
見えない危険
子どもの頃のこと、私たちの家族は危うく大惨事を免れたことがあります。当時、暖炉をはじめ家の主な設備は、ほとんど天然ガスを使っていましたが、ガス管からわずかにガスが漏れていて、私たちの生命をおびやかしたのです。小さな家にガスが充満し、私たち家族はガス中毒になって気を失ってしまいました。近所の人がたまたま立ち寄って発見してくれなかったら、私たち家族は全員、この見えない危険な敵に殺されていたことでしょう。
キリストの弟子である私たちは、自分が見えない危険に囲まれていることを知っています。誘惑という毒のある現実と、人間であるがゆえの弱さは、私たち自身や私たちの人間関係を危うくします。しかしながら、我が家のガス中毒事件とは違って、これらの見えない敵は、外からのものではありません。それは、私たちのうちに宿っています。ヤコブは、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」と書いています(ヤコ1:14)。
私たちは罪を犯してしまう性質を持って生まれてきました。また、目には盲点があって自分の弱点が見えません。これらは合わさって、私たちを間違った選択にいざない、破滅させてしまうかもしれないのです。しかし唯一、神に従うなら、神は私たちの心の状態を聖書のみことばを通して示されます。そして、みことばを行う人となって、主なる神に喜んでいただける人生を送ることができます(23-25節)。
移動図書館
ゲーム機などができる前、私の少年時代のことです。長い夏休みには、毎週やってくる移動図書館が楽しみでしかたありませんでした。地域の図書館になかなか行けない人たちのために、本棚にぎっしり本を詰め込んでやってくるバスです。この移動図書館のおかげで、たくさんの本を読んで夏を楽しく過ごせました。今でも、この移動図書館が私を読書好きにしてくれたと感謝しています。
及ばない
米国で1970年代に流行したものの中に、バイクジャンプがあります。しかし、1974年9月8日に流行のピークを迎えたと言えるでしょう。その日、アイダホ州のスネーク・リバー・キャニオンには多くの観客が集まっていました。イーブル・ニーブル氏の乗る蒸気を使った特注マシン「スカイサイクル」が谷を飛び越えられるか見物しにきたのです。結局、この試みは失敗に終わりました。
頭からこころへ
子どもの頃のピアノの先生は、暗譜にこだわる人でした。一曲を間違わないで弾くというだけでは十分でなく、何曲かを連続して弾いて、どれも完璧でなくてはいけませんでした。その理由は、ピアノを弾いて欲しいと人に言われたときに「ごめんなさい、楽譜がないから弾けません」と言わなくても良いように、ということでした。
子どもの頃、聖句の暗記もしました。詩篇119篇11節も覚えました。私は幼かったので、聖書を暗記すれば罪を犯さないのだと信じ、一生懸命暗記しました。暗唱聖句で表彰され「ムーディ・バイブル・ストーリー」の本をもらったこともありました。
聖書を暗唱することは良い習慣ですが、覚えるだけで罪を犯さなくなるわけではありません。私も表彰されてまもなく、聖書のみことばを頭に叩き込んだけれども、私の態度や行動にはあまり反映されていないと気づきました。知識があるというだけでは罪に打ち勝てるはずもなく、むしろ罪悪感ばかりが募りました。
やがて、私は主のみことばを全人的に理解すべきだと気づきました。つまり、音楽家が演奏曲を自分のものにするように、私もみことばを自分のものとし、心にたくわえるのです。私たちは聖書のみことばを引用するのと同じぐらい、聖書のみことばを行わなければなりません。みことばが私たちにとって、単なる頭の知識から心の宝へと変化するにつれ、罪の影響力は失われていきます。
隠すもの
隠したいものがあるなら、マイク・スラッテリーに相談するとよいかもしれません。数年前、ある携帯電話会社が、マイクの所有地にアンテナを立てさせてほしいと話を持ちかけました。そして、景観を守るために、アンテナをやしの木に見せかけると言うのです。しかし、マイクには、より良いアイデアがありました。電波を通すビニールパネル製の、家畜小屋を装った小屋を建てるのです。後に彼はこのアイデアをもとに、美観とセキュリティという観点から、アンテナを隠す建物を作る会社を設立しました。マイクは、家畜小屋には牛も馬もおらず、アンテナだけがあるとは近所の人も気づいていないと確信しているそうです(コロラドスプリングスのガゼット新聞より)。
私たちにも、人に見られないように隠しているものがあります。それは、散らかった物置部屋のような害のないものかもしれませんが、一方で、非常に有害なものを隠しているかもしれません。自らの道徳的もしくは霊的な欠点を直視せず、人どころか神にさえも隠そうとしているかもしれません。
詩篇32篇でダビデは、罪を隠そうとする無益な行為(3-4節)と、本当のことを神に打ち明けて安堵する喜びを記しています。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」(5節)。
神に自らの罪を告白し、その罪を捨て去るなら、たましいが自由になったと感じます。そして、もう何も隠さなくてよいのだと安心させてくれます。