見せて伝える
文章教室や文筆家たちの会議に参加すると、「見せなさい。説明ではダメだ」と必ず言われます。これはつまり、起こった事柄を説明するのではなく、読者自身が現場にいて自分で見ているかのように感じさせなければならないということです。伝える側は、やっていることを描写するのであって、説明するのではありません。
悲劇的欠点
文学の世界には、悲劇の主人公に性格的な欠陥があり、それが彼(彼女)を破滅に追い込んでいくというパターンがあります。これを「悲劇的欠点」と呼びますが、聖書のウジヤ王の場合は、まさにそれでした。ウジヤは16歳にしてユダの王となり、長い間、主を追い求め、主に従いました。神はそのようなウジヤに繁栄をお与えになりました(Ⅱ歴26:4-5)。ところが、変化が現れました。それについて聖書は次のように語っています。「彼の名声は遠くまで広まった。彼が驚くほど神の助けを得て強くなったからである。ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った」(口語訳 15-16節)。
ウジヤは神の命令に背いて、自らが祭壇で香を焚こうとし、主の神殿に入りました(16節)。おそらく、自分だけは特別で、神が全人類に与えられた戒めからも除外してもらえると思うほどに、心が高ぶっていたのでしょう。祭司はウジヤを諭そうとしましたが、ウジヤは居直って激しく怒りました。そのとき、神がウジヤにツァラアトを与えられたのです(18-20節)。
文学でも、現実の世の中でも、良い評判を誇った人が面目を失い、自分の名を汚し、苦しむのを見ることがあります。聖書は「ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され、ツァラアトに冒された者として隔ての家に住んだ。彼は主の宮から絶たれたからである」(21節)と語ります。
称賛の甘い蜜が、おごりという毒に変化しないように注意すべきです。そのためにできる唯一のことは、謙虚な心で神に従うことです。
食べそこなったランチ
食事は私にとって、ただの必要でなく、人生の大きな楽しみのひとつです。食卓について美味しいご飯をいただくのは、本当に嬉しいのです。お腹がすいているときにはなおさらです。
さて、イエスの弟子たちは戻ってきて、先生がサマリヤ人の女性と井戸端で話しているのを見ました。彼らは昼食を食べていなかったので、お腹がすいていたのでしょう。イエスに、「先生。召し上がってください」と言いました。ところが、主のお答えは「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」だったので、彼らは「だれか食べる物を持って来たのだろうか」といぶかったのです(ヨハ4:31-33)。
弟子たちは食事にこだわるあまり、自分たちが楽しく時を過ごすこと以外は思いつかず、井戸端で行われていたことの重大性を認識できなかったのでしょう。主イエスにとって最も重要なことは、「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げること」(34節)でした。ですからイエスは、この女性の霊的な必要に焦点を合わせていました。彼女が渇望している霊の満たしを与えることができるのは、主イエス以外にはおられないからです。
私たちは、目下の必要にとらわれがちです。しかし、自分にとって「おいしいもの」ばかりに気を取られるのではなく、しっかり目を開けて、心を満たすものを求めて探している人がいることに目を向けなさい、とイエスは教えておられます。
井戸端にイエスとともに立ちましょう。そして主イエスに用いていただいて、主だけが与えることのできる霊の糧があることを人々に語っていきましょう。
本当のもてなし
私は1987年にカリフォルニア州のロングビーチの教会に赴任することになり、家族で南カリフォルニアに引っ越してきました。教会の秘書が空港まで迎えに来てくれて、私たちを牧師館まで送ってくれましたが、空港から外に出て最初に目に飛び込んできたものは、「カリフォルニアへようこそ…さあ、とっとと故郷に帰れよ!」という車に貼られたステッカーでした。陽光の降り注ぐ暖かい南カリフォルニアでしたが、その歓迎メッセージは決して温かいものではありませんでした。
さて、私たちもまた、このようなメッセージを周りの人に送ることがないでしょうか。教会や近所付き合い、または趣味の集まりなど、どんなグループにいたとしても、初めての人が居心地よいと感じられるように心を砕くことをせず、放っておいていないでしょうか。
パウロはローマ人への手紙12章13節で「もてなしなさい」と教えました。さらに、ヘブル人への手紙は、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」(13:2)と語っています。出会う人たちにやさしく親切にすることで、私たちは、救い主の招きを反映させています。つまり、「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(黙22:17)と聖書が語るとおりです。
温かくもてなしすることは、天国に続く道を示し、そこに向かって第一歩を踏み出す手助けをすることにつながるでしょう。
人生の四季
私は、牧師として子育て中の多くの女性とともに歩んできました。病院に足を運び、この世に生を受けた赤ちゃんの誕生をともに喜びました。反抗期のティーン・エイジャーの娘や息子を心配して相談に来る母親たちには、神は子どもたちをしっかり見守ってくださると話して励ましました。また、病気やけがの子どもたちが眠るベッドの脇に母親たちとともに立ち、その心の痛みを受け止めました。子どもを亡くし、悲嘆にくれる母親たちとともに泣きました。
イエスの母マリヤも、この喜びと悲しみを経験しました。イエスがお生まれになったときは、どれほど嬉しかったでしょう(ルカ2:7)。羊飼いや博士たちが拝みに来たとき、心が踊ったでしょう(8-20節、マタ2:1-12)。剣が心を刺し貫く、とシメオンが預言したときは、どれほど不安だったでしょう(ルカ2:35)。そして、自分の息子が十字架の上で死んでゆくのを見て、胸をえぐられるような悲しみを体験しました(ヨハ19:25-30)。しかし、そんなひどい体験で母親としての人生が終わったのではありません。イエスは墓からよみがえり、マリヤは喜びました。
母親をはじめすべての人は、人生において素晴らしい喜びと深い悲しみを経験します。しかし、自らの人生を神に委ねるなら、人生におけるすべての四季が、神の永遠の目的に仕える奉仕となります。
応援したい
私は少年野球チームの監督をしていますが、初めの試合で顔面にデッドボールを受けた選手がいました。幸いけがは無かったのですが、当然のことながら心理的なダメージを受け、ボールを怖がるようになりました。毎試合、勇気を奮い起こしてバッターボックスに入るのですが、全く打てません。この状態はシーズンの終わりまで続きました。
シーズン最終戦。私たちのチームは大差で負けていて、意気消沈していました。そんなとき、あの選手が打席に入りました。カ~ン!鋭いヒットです。みんなびっくりして、選手たちは大騒ぎ。彼の両親も、他の選手の親たちも大声援を送りました。まだ大差で負けていたのですが、監督も飛び上がって喜びました。みんなこの少年を愛し、応援していたからです。
神も同じです。私たちを応援しておられます。私たちを深く愛し、神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」(エペ3:18-19)と願っておられます。
神は自分たちが失敗しないかと見張っていて、しくじると罰する厳しい存在だと考えている人がいます。そのような人たちに神の深い愛を伝えられるのは何という特権でしょう。神はご自分のひとり子を世に遣わされ、その御子を世の人の罪の贖いとして、十字架にはりつけにされました。それほどまでに私たちを愛し、応援しておられます。このことが分かったとき、人々はどれほど嬉しく思うでしょう。
葛藤から生まれた歌
ジャック・ホワイトは、名ギタリストたちを追ったドキュメンタリー映画の中で、曲を作るときの必須条件について、「自分の内面や自分の周りに葛藤がないのなら、それを作らなくてはならない」と語っています。
心の奥底にある思いを言葉にしてくれる歌は、私たちにとって大切な歌となります。詩篇はよく「聖書の歌」といわれますが、これらはみな葛藤の中から生まれました。それは、私たちの失望や恐れなどをうまくとらえる一方で、私たちの心を神の真実の愛に向けさせてくれます。
ダビデは詩篇31篇で「私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです。私の目はいらだちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私のからだも」(9節)と書きました。彼は自分にしかけられた罠(4節)、自らの罪(10節)、友の離反(11-12節)について語り、命をねらわれているとも述べています(13節)。
しかし、ダビデの希望は自分の力ではなく神の力にありました。彼は、「主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください」と祈ります(14-15節)。
詩篇はあなたの心情を神に注ぎ出すよう勧めています。神は、ご自分を信頼する人たちに施す慈しみを十分に備えておられるのですから(19節)。
愛すことが難しいとき
昔のことになりますが、反抗的な少年たちのキャンプのカウンセラーを務めたことがあります。ふれあい動物園の動物をいじめたり、お互いの間で取っ組み合いの喧嘩をしたりするのです。私は、冷静かつ毅然とした態度で彼らを指導しました。いらいらさせられることは多々ありましたが、彼らの物質的なニーズは必ず満たされるように、心を配っていました。
私の姿は、はた目には親切で優しく見えたでしょう。しかし、心の内は穏やかでなく、「我慢してやっている」と感じていました。このような状況で祈っていて、私は、いつくしみ深い天の父が、反抗的な子どもたちのために日々の必要を満たしてくださっていることに気づきました。パウロは、エジプトを脱出したイスラエル人の生活について、「(神が)約四十年間、荒野で彼らを耐え忍ばれました」と語りました(使13:18)が、この「耐え忍ぶ」と訳されたギリシャ語はたぶん、感謝しない相手に忍耐して必要なものを与え続けたという意味でしょう。
心配して世話をしてあげても感謝せず、むしろ反抗的な態度をとる人に会うかもしれません。そんな時には思い出しましょう。神がどれほど我慢してくださっているかを。それだけではありません。神は私たちに聖霊をくださいました。聖霊は、好きになれない人や恩知らずな人にも愛をもって応答できるように、助けてくださいます(ガラ5:22-23)。
愛すことが難しい相手を愛せるように、主よ、どうかあなたの忍耐をお与えください。
あいしてる
夫婦で公営プールにいたとき、周りの人たちが空を見ているのに気づきました。小型飛行機が飛んでいて、煙で何かを書いていました。じっと見てみると、パイロットは「あ・い・し・て・る」と書いていきます。人々は、ひょっとしたらプロポーズではないかと推測し始めました。ロマンチックな男性が恋人と一緒に、どこか近くのバルコニーにいて、「結婚してください」と、今にも告白するのではないだろうかと。さらに見ていると、「あ・い・し・て・る、ジ」となり、若い女の子たちの「きっとジェンよ、もしかしたらジェシカかな」という声が聞こえました。パイロットはさらに書き続けました。すると、その名は「ジーザス」でした。彼は、イエスを愛していると多くの人たちに宣言したのです。
私の友だちは、「愛しています、主よ」といって、祈りを締めくくります。彼は「『愛しています』と言わずにはいられないんだ。ぼくのために、こんなにまでしてくれたのだから」と言います。今日の聖書のみことばはローマ人への手紙6章1節~11節ですが、使徒パウロはここでイエスの御業について語っています。イエスは十字架にかけられ、葬られ、復活しました。この御業のために、イエスを信じる私たちは、今新しいいのちを持っています(4節)。もはや罪や死の恐怖に支配されず(6節、9節)、キリストと永遠に生きるために復活します(8節)。このような御業は、私たちが心を込めて愛するのに、十分に値します。
「愛しています、ジーザス」と言うのは、当然です。