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すがすがしい率直さ

母の良いところはたくさんありますが、率直なところは特に好きです。母の意見を聞こうと電話をすると、彼女はこう言います。「本当に私の意見を聞きたいのでないなら、聞かないでちょうだいね。あなたに気をつかって、色よいことを言ったりしませんよ。本当に思っていることしか言いませんからね。」

世の中には、保身のために言葉をあいまいにする人が多いので、彼女の率直さは、すがすがしい気分にしてくれます。率直さはまた、真の友情の特質です。真の友は、真実を優しい態度で告げてくれます。たとえそれが、耳障りなことでもです。箴言も「…愛する者が傷つけるほうが真実である」と語っています(箴27:6)。

真実を優しく告げてくださることは、イエスが最高の友であるひとつの理由です。サマリヤの女が井戸端でイエスに会いました。イエスは、どちらでもよいのに意見が対立している小事にはかかわらず、彼女の心の深い部分にある一番大切なことを取り上げられました。イエスは、神は霊ですからと語って信仰のチャレンジを与えられました。また、この女性は、人生の夢が破れて深い失望の中にいましたが、イエスは、そのことについても優しく語りかけられました(ヨハ4:7-26)。

神とともに歩むとき、神が聖書のみことばを通して、私たちの本音に率直に語りかけてくださいますように。悲しみや苦しみの中にいるときも、神と向き合い、神の恵みによって助けられますように。

神の灯台

ミッション・ポイント・ライトハウスという灯台が、1870年にミシガン州北部の半島に建てられました。ミシガン湖を航行する船舶が砂州や岩礁に乗り上げないよう、注意を促すためです。この名前は、オールド・ミッションと呼ばれる地域の教会(別の意味での灯台)に由来しています。

1839年、ピーター・ドウアティ牧師は、神の召しに応えてオールド・ミッションの教会の牧師になりました。この教会は半島をさらに南に下った地区に住んでいた、アメリカ先住民が集う教会でした。しかし、白人牧師のリーダーシップのもと、先住民の教師や農民、職人たちは、みな一緒になって、この共同体の生活向上を目指して働きました。

キリストを信じる人たちが人種や民族を超えて一致して働くとき、その共同体は、暗い世の中で霊的な光を放ちます(ピリ2:15-16)。イエスは言われました。「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。…このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタ5:14-16)。

ミッション・ポイント・ライトハウスは、航行する船舶に危険を知らせました。その名の由来となったオールド・ミッション・チャーチは、耳を傾けるすべての人に、霊的方向を示しました。個々のクリスチャンも、自分の生活を通して、また教会を通して、この働きをします。私たちは神の灯台です。イエスが私たちの内に住んでくださっているからです。

土の器

高価なアクセサリーは普通、黒など濃い色のベルベットを貼った箱に収められています。そのようにデザインされているのは、宝石の美しさをきわだたせ、人を惹きつけるためでしょう。もし、外箱のデザインも華やかだったなら、宝石の美しさと張り合ってしまいます。

このことは、私たちを通してなされるイエスのみわざについて思い出させてくれます。使徒パウロは、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」と語りました(Ⅱコリ4:7)。私たちは、イエスのみわざが宝であり、自分は器にすぎないことを簡単に忘れてしまいます。そして、自分という土の器を飾って、自分がキリストのためにしたことを自分の手柄にしてしまいます。自分が誰かを赦したり、他人に親切にしたり、たくさんの献金をしたりすると、人に認めてほしいと思います。けれども、良いことをしたので認めてほしいとか、褒めてほしいと求めるのは問題です。それは、輝く宝(私たちを通して神が働いておられるということ)と張り合うことだからです。

私たちがキリストのためにしたことはすべて、私たちに関することではなく、キリストの栄光に関することです。自分の姿を少しでも見えなくすることで、神の栄光は輝きを増します。ですからパウロは、神が栄光を受けるように、宝は土の器の中に入れると言ったのです。土の器が尊いなどと聞いたことはありません。大切なことは、その中に何が入っているかではありませんか。

ギリシヤ火薬

ギリシヤ火薬はビザンチン帝国が戦場で用いた、液状の化学兵器です。あるインターネットサイトの情報によると、この兵器は672年頃に開発され、水の上で燃えるため海上戦で絶大な威力を発揮し、敵に壊滅的な被害を与えました。では、このギリシヤ火薬とはいったい何だったのでしょう。その成分は今でも謎です。あまりに有効で価値ある兵器だったので、製造法は門外不出のトップシークレットでした。そのために謎が多く、歴史の闇に葬られていったのです。今日でも、この古代の破壊兵器を再現しようと研究が続けられていますが、未だ成功には至っていません。

一方で、キリストを信じる人同士の人間関係に壊滅的な打撃を与えるものは何かといえば、その答えは明らかです。使徒ヤコブは、クリスチャンの人間関係を壊すのは一種の「火」であると述べていますが、これはギリシヤ火薬とまったく異なった「火」です。ヤコブは、「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し」と語ります(ヤコ3:6)。彼の強い主張は、私たちの軽率な発言が、いかに大きな害を周囲に及ぼすかを再確認させてくれます。

自分の口で「ギリシヤ火薬」を作って、家族や教会の人間関係を損なわないようにしましょう。むしろ、聖霊の支配に委ねた発言をして、主の栄光を表しましょう。

指導者のしるし

寒さの厳しいある冬の日、パデュー大学キャンパスのクラブ・ハウスの前で、ふたりの学生を見かけました。彼らは歩道に張った厚い氷をコツコツ削っています。クラブの先輩に辛い仕事を言いつけられた下級生だろうと思って、「先輩の命令かい。ずいぶん厳しいね」と話しかけると、ひとりが顔を上げてにっこりしました。「いえ、私たちは上級生です。私はクラブの副部長で、この友だちが部長です」と答えました。私は、彼らの働きぶりに感謝を述べてから歩き出しました。それは、人に仕えることこそ真の指導者のしるしだということが、思い出された経験でした。

イエスの弟子ふたりが、来るべき神の御国で主の右と左に座ることを求めたとき、イエスは十二使徒の全員を集めて、「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」と言われました(マコ10:43-44)。イエスは、ご自分の言葉をちゃんと理解していなかった者たちのために、念を押されたのです。仕えられるためではなく仕えるため、そして、罪の力から私たちを救う贖いの代価として自分のいのちを与えるために、イエスはこの世に来られました(45節)。

真のリーダーシップ、また神に似せられたリーダーシップとは、権力や特権ではなく謙虚に奉仕することです。神は、人々が主の道に歩むように、主の模範に従って指導する力を私たちに与えてくださいます。

招待者リスト

クムランというユダヤ人の共同体が一世紀に存在しましたが、彼らは世俗の影響を受けずにメシヤの到来に備えようと、社会から隔絶して孤高の生活をしていました。彼らは祈りの生活や洗いの儀式、行動規則の遵守に力を入れていました。発掘された文書によると、彼らは目や手足の不自由な人たちを共同体に受け入れなかったそうです。これは、身体に欠陥のある者は誰でも宗教的に汚れている、という信念に基づいており、そのような人たちが食事に招かれることはありませんでした。

その同じ時期、イスラエルの救い主イエス・キリストは、ユダヤやガリラヤの町や村で活動しておられました。父なる神の御国を宣べ伝え、人々を教え、慰め、素晴らしい奇跡を行っておられました。驚くことに、イエスはこう言われました。「祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。…あなたは幸いです」(ルカ14:13-14)。

イエスのみことばと、宗教界のエリートであるクムラン共同体の招待者リストは対照的です。そして、それは次のことを教えています。つまり、私たちの交わりは、自分と同じような人、自分と同じ考え方の人、また自分と同じように行動する人同士の交わりになる傾向にあります。しかし主は、私のようにすべての人を受け入れなさいと、強く勧めておられます。

健全な言葉

しばらく前、アメリカン・ミュージック・アワード(アメリカ4大音楽賞のひとつ)の授賞式のさなか、あるエミー賞女優が勇敢にも立ち上がり、退場したことがありました。その理由は、式の司会者、賞の贈呈者、またミュージシャンたちが、次から次へと下品でわいせつなコメントや冗談を連発するので、非常に不愉快で失望したためです。その女優は、自尊心と尊厳がわずかでもある人にとって、あのような式に列席させられるのは侮辱以外の何ものでもないと語りました。

下品で不健全な言葉は、使徒パウロの時代においても問題でした。パウロはエペソのクリスチャンに対し、下品なこと、みだらなこと、そしり、恥ずべきことばを取り除くように、と念を押しました(エペ5:8、コロ3:8)。これらは、過去の生活の言葉であり(Ⅰコリ6:9-11)、イエスによって新しい人生が与えられた今の彼らには、ふさわしくないものでした。新しく再生した者の生き方は、健全な言葉によって特徴づけられるべきです。彼らの良質で健全な言葉は、聞く人に恵みを与えます(エペ4:29)。聖霊は、私たちの口を守り、下品なことを言うと叱ってくださり、人の益になる言葉を使えるように助けてくださいます(ヨハ16:7-13)。

私たちは、自分のすべてをもって、神の栄光を映すように召されています。その中には、口から出る言葉も含まれています。私たちの口から出る言葉が、感謝に満ち溢れていますように。そして、他の人に益を与える言葉で満たされていますように。

あなたが必要

オーケストラのリハーサルをしていた指揮者の話があります。オルガンが旋律を美しく奏で、バイオリンが澄んだ音色を響かせました。トランペットが鳴り渡り、ドラムは雷鳴のように響きます。しかし指揮者は、何かが足りないと気づきました。ピッコロです。ピッコロ奏者は集中していなかったので出遅れ、きちんと演奏していないことに気づかれないようにと願っていました。しかし、指揮者はピッコロ奏者に言いました。「一人ひとりが必要なのです。」

これは基本的に、使徒パウロが、コリント人への手紙第一に記したメッセージと同じです(12:4-7)。「キリストのからだ」において、すべてのクリスチャンは重要な役割を担っています。パウロは様々な御霊の賜物を述べ、それらを用いるのは、身体の様々な器官が全体の益のために働くのと同じだと言いました(8-10節)。コリントのクリスチャンは、それぞれに異なった文化的背景、賜物、性格を持っていたでしょうが、同じ御霊に満たされ、同じキリストのからだに属していました。パウロは、身体には弱い器官や目立たない器官があるということにも言及し、その上で、誰かが別の人以上に必要だということではなく、すべてのクリスチャンに役目が与えられていると教えました。

忘れないでください。イエスは、あなたに重要な役目を与えておられます。兄弟姉妹が立て上げられるために、あなたを用いようとなさっています。

神の優しさを

厳しい不景気のさなか、私は、失業中のクリスチャンが互いをサポートする自助グループを立ち上げました。履歴書の相互チェック、求人情報ネットワーク網、祈りによるサポートなどがその内容です。そんな中、ひとつの問題が浮上しました。自分が就職すると、もう関係ないとばかりに、自助グループに参加しなくなる人がほとんどだということです。そのため、なかなか就職できない人たちは、むしろ孤独感を募らせたのです。

さらに悪いことは、失業を経験したことのない人の言葉でした。「もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される」(ヨブ8:6)と、友だちが苦しんでいるヨブに告げたときと同じように責めました。ヨブは、「安らかだと思っている者は衰えている者をさげすみ」(ヨブ12:5)と自分の気持ちを表しましたが、現代の社会で求職中の人たちもおそらく共感するでしょう。

人生が大した問題もなく進んでいる人はともすると、自分は苦境にある人たちよりも優れているとか、神に愛されていると思いがちです。この失われた世界の影響は、いつ、誰のところにやって来るか分からない、ということを忘れてしまうのです。

私たちは、状況が良くても悪くても、みんな神に愛されています。また、状況が良くても悪くても、私たちはみんな、神が必要です。自分に与えられた成功や富、または社会的地位は、困っている人たちを助け励ますツールなのです。