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自分自身を見る

自分の姿を映して見ることができるのは、昔は水溜りや川など、ごく限られた場所でした。しかし、鏡が発明されて状況は変化しました。時代が下り、カメラが発明されると、自分の姿を映すことに関する強い関心は高まりました。写真は人生のあらゆる時の自分の姿を、そのまま保存することが可能です。これは家族の成長を記録するアルバム作りには良いのですが、心の健康にとってはどうでしょう。カメラに写る自分の姿に気を取られていると、外見ばかりが気になって、内側を吟味することをおろそかにしがちです。

沈黙の音

釣り仲間が「深い川は静かに流れる」ということわざを巧みに逆転させて、「浅い川は、大きな音を立てて流れる」と言いました。つまり、あれこれ騒ぎ立てる人ほど、中身が無いと言いたかったのです。裏返して言うなら、私たちは聞くことをおろそかにしている、ということになります。「サウンド・オブ・サイレンス」という歌の中に、傾聴しない人たちが登場します。言葉が聞こえていても、まず自分の考えを脇において、相手の話に耳を傾けることができません。黙して静まることを学ぶのは、誰にとっても良いことです。

ガチョウと厄介な人々

今の家に引っ越して間もないころ、私は近くに巣を作っているガチョウの美しさに魅了されました。互いの世話をしたり、一列になって水に入って行ったり、見事なV字隊形を作って空を飛ぶ様子を見て感心しました。彼らの子育てを見るのも楽しみでした。

やさしい光

中国雲南省の田舎に住むワン・シャオイン一家は、夫が病気で貧困にあえいでいました。姑は、この災難はシャオインの信仰のせいだと言って彼女をいじめ、先祖を拝むように言いました。しかし、妻が内から変えられたことを見ていた夫は、「母さん、シャオインだけではダメなんだ。僕たちも神を信じよう」と言ったのです。妻の変化を見て、彼はイエスの福音を信じるべきではないかと真剣に考えていました。

友をイエスのみもとへ

ポリオは私が子どもの頃、最も恐れられていた病気のひとつで、感染患者の多くが小さな子どもだったために「小児麻痺」とも呼ばれていました。1950年代の中頃に予防ワクチンが開発されるまでは、アメリカ合衆国だけでも毎年、およそ二万人がポリオで身体の自由を奪われ、そのうち千人が死亡しました。

日々の雑用

私が通った中高一貫校では、ラテン語が4年間必須でした。私たちの先生は反復練習を重視していて、一日に何度も「繰り返しは学習の母」と生徒たちに唱和させました。一方、私たちは「繰り返しは馬鹿げている」とこっそりつぶやいたものです。

賢者の言葉

姪の夫が最近、ソーシャルメディアのサイトに次のような書き込みをしました。「やめておきなさい、とささやく小さな声がなければ、私はオンライン上でもっとたくさんのことを言うでしょう。クリスチャンならば、その小さな声は聖霊だと思うかもしれませんが、それは妻のハイディの声です。」

逃したチャンス

今日、なんとも悲しい言葉を聞きました。ふたりのクリスチャンが話し合っていたのですが、彼らの意見は一致していないようでした。年上の方は、次々と繰り出す暗唱聖句を武器に相手の悪い点を指摘しています。若い方の人は、先輩の説教にも、彼の相手をすることにもうんざりしています。そのやりとりも終盤になって、年上のクリスチャンは相手のしらけた態度に、「前は熱心だったのに…。いったい何が気に入らないんだ」と言いました。

裏方

私たちの教会が開く宣教イベントのクライマックスは、町中の人を巻き込んだ礼拝でした。礼拝の最後に、青年たちのミュージック・チーム、カウンセラー、そして、牧師や伝道師たちがステージに上がり、会衆は拍手喝采で、彼らの労をねぎらいました。ところが、ほとんど目立たない人がいました。その人こそ、この企画の推進役なのです。後日、彼を見かけたので、「イベントが成功してよかったね。お疲れさま。でも、君は表に出ないんだね」と言いました。すると彼は、「僕は裏方をするのが好きなんだ」と答えました。彼は目立つことを求めません。こういう人こそ評価すべきです。