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安らぎの家

建設会社の人事部に勤務していたときのことです。会社が隣の州の仕事を受注して、作業員たちの通勤時間が往復4時間ほどになりました。私たちは、彼らの負担を軽くするために、現場近くで宿泊施設を確保しましたが、同時に運転手付のワゴン車も手配して自宅通勤の希望者にも備えました。驚いたことに、ほとんどの作業員は自宅通勤を選びました。

その中の一人は、職場で一番気難しい人でした。ところが彼は、別人のような笑顔で最初の夜に帰宅したときのことを嬉しそうに話しました。彼は通勤という選択肢があることを話さず、家族をびっくりさせようと思っていました。案の定、彼が帰ると、妻と4人の息子たちは驚いて大喜びしたのです。後日、彼の妻は社長にお礼の電話をしてきました。そして、家庭が大切であることを分かってくれる会社には、家族一丸となって誠を尽くし、ずっと支えていくつもりだ、と言ったそうです。

イエスは永遠の住まいをあげようと言われましたが(ヨハ14:2)、そのおことばに弟子たちがどれほど慰められたかは、短期間でも自宅に帰ることができなかった人ならわかるでしょう。イエスは、「あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(3節)とおっしゃったのですから、これ以上の喜びはありません。イエスとともにいられるのは最大の喜びです。

主イエスとともに住むために私たちは天の我が家に行く、とイエスは約束してくださいました。これは人生最大の慰めです。

こっそり逝ったおじいちゃん

従兄弟のケンは4年もの間、癌と勇敢に闘いました。最後の日には、妻や3人の子どもたち、そして孫たちが、次々に病室にやって来て、特別な別れの時を過ごしていました。ところが、たまたま部屋に誰もいなかった数分の間に、ケンは永遠への旅に出かけて行ったのです。家族のみんながそのことに気づいたとき、幼い孫娘が、かわいらしく言いました。「おじいちゃんは、こっそり逝っちゃったんだね。」

ほんの少し前まで、神はケンと一緒にこの地上におられました。しかし、次の瞬間、ケンのたましいは、神とともに天国に移されました。

詩篇16篇は、ケンが好きだった詩篇です。自分の葬儀では、ここを読んで欲しいと言っていました。詩篇の作者ダビデは、神との個人的な関係ほど貴重な宝はないと語りましたが、ケンもまったく同感でした(16:2、5)。ダビデは、「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず…」と述べました(16:10)。神を避け所とするならば、死がクリスチャンのいのちを奪い取ることはできません。ダビデは、そのことが分かっていました。ケンであれ、誰であれ、イエスを救い主と信じる人は誰でも、死に捨て置かれることはありません。

イエスが死んで復活してくださったので、私たちもいつの日かよみがえります(使2:25-28、Ⅰコリ15:20-22)。そして、神の右には楽しみがとこしえにあることを知ります(詩16:11)。

不可解な真実

無限の神が、有限の人間にご自分の心を伝えようとなさっても、その結果は不可思議としか見えないことがあります。その一例は詩篇の一節、「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」(詩116:15)です。一読では納得のいかない、むしろ疑問の深まる個所です。
そんなことがあるだろうかと思ってしまいます。私たちは持って生まれた肉の目でものごとを見ます。そして、最愛の17歳の娘を交通事故で奪われた私は、このことの何が「主の目に尊い」のだろうと思います。愛する人を奪われた人はみな、そのように思うのではないでしょうか。

けれども、主の目に尊いとは、地上の恵みを受けることに限定されないと考えるとき、この謎は解明されていきます。このみことばは、天国の視点に基づいています。例えば、私は詩篇139篇16節を読んで、娘のメリッサが天国に入ることは予定どおりだったと納得することができました。神は彼女の到着を心待ちにしておられ、それは「主の目に尊い」ことでした。また、ご自分のところに迎え入れられた神の子どもたちが、長子であるイエスと対面して感動に酔いしれるとき、その姿をご覧になった天の父である神は、どれほど嬉しいことでしょう(ヨハ17:24参照)。

キリストを信じる人が死ぬとき、神は、両手を広げてご自身の臨在の中に、その人を迎え入れてくださいます。私たちは涙を流しますが、それでも、その人の死が神の目にどれほど尊いかは理解することができます。

栄光を受ける準備

牧師であり聖書の解説者であったマーティン・ロイドジョンズは、1981年3月1日、死の床にありました。彼は1939年から1968年まで、ロンドンのウェストミンスター・チャペルの牧師として仕えました。人生が終わりに近づいたとき、彼は話す能力を失っていました。そこで、これ以上自分の回復のために祈って欲しくないと知らせるため、「栄光に向かっていく私を、どうか引きとめないで」と紙に書いたのです。

人の命は大切ですし、この世を去って天国に行く家族や友人を見送るのは辛いものです。しかし、神は、いつ誰を御国に呼び寄せるか、決めておられます。詩篇116篇15節は「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」と語ります。

自分の死が近いと知ったとき、使徒パウロは、天国で自分を待っているものに励まされ、次のように述べました。「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」(Ⅱテモ4:8)。

私たちが今、人生の旅のどこにいたとしても、終着駅は主のみもとです。聖書は「実はそのほうが、はるかにまさっています」と語ります(ピリ1:23)。このみことばは、逆境に自信を持って立ち向かう助けとなります。また、キリストが準備された栄光の家に向けて旅立とうとする人たちを見送らなければならないとき、私たちの心を慰めてくれます。

涙の道

アメリカ史上に残る悲惨な出来事として、19世紀初期に行われた先住民の強制大移住が挙げられます。当時、急速に増加する白人たちと数々の条約を結び、アメリカ独立革命をともに戦った先住民たちが、先祖伝来の地から追放されました。1838年の冬、チェロキー族は「涙の道」として知られる1,600キロメートルもの道を西に向かって歩かされました。

価値がある

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◆ イザヤ書55-57
聖書のみことば ヘブル11:8-16
 
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。―ヘブル11:16

私たち夫婦は、友人がオーストラリアのホバートに何度も旅行するのを不思議に思っていましたが、彼女に誘われて、一緒に行くことにしました。空港から橋を渡って市街地を抜け、郊外に行きました。これと言って何もない風景です。いくつかのヘアピンカーブを曲がりながら、ゆっくりと急な坂を上ると眼下に海岸線が見えましたが、それも普通の景色です。

より良い場所

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◆ 詩篇37-39
聖書のみことば 黙示録21:4-11
 
神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。―黙示録21:3

友人のマーシは義父が亡くなったあと、彼の好物のパイナップルサラダを作るのを止めてしまいました。ある日、彼女の幼い息子が、どうして最近、パイナップルサラダが食卓に上らなくなったのかと尋ねると、マーシは答えました。「おじいちゃんを思い出して悲しくなるからよ。

集まる

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◆ 詩篇9-12
聖書のみことば 黙示録7:9-17
 
御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださる―黙示録7:17

オズワルド・チェンバーズは、エジプトのYMCAで従軍チャプレンとして奉仕し、第一次世界大戦で亡くなった多くの兵士たちの心の支えとなりました。チェンバーズは1916年11月6日の日記に次のように書いています。「ニュージーランドの友から手紙が届いて、テッド・ストラックが死んだと書いてあった。

あなたの居場所

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◆ ヨブ記11-13
聖書のみことば ヨハネ13:36-14:4
 
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。―ヨハネ14:3

ある夫婦が年老いた叔母を引き取って同居しようと決めましたが、気がかりなのは、彼女が新しい環境に慣れることができるかどうかでした。それで、せめて寝室は以前の部屋とそっくりにしようとしました。彼女が新しい部屋に入ると、家具や壁掛け、その他のお気に入りの品々が、まるで「おかえりなさい!」と言っているようでした。