犠牲
ミケランジェロの最も感動的な作品は、1540年代、友人ヴィットリア・コロンナのために描いたピエタ、イエスの母が息子の亡骸を抱いているチョークの絵画です。マリヤは息子の動かない身体を抱きながら、天を見上げています。背後の十字架には「いかほどの血が流れたのか、知るよしもなし」というダンテの「神曲 天国篇」の一節が記されています。そのとおり。イエスの死に思いを致すとき、その犠牲の大きさをよく考えるべきです。
すべての息
ティーアンは、珍しい自己免疫疾患を患い、筋肉の力が徐々に失われて死にそうになりました。そして息ができることは神の賜物だったと気づきました。数秒ごとに機械で肺に酸素を送り込む治療が一週間以上も続き、それはとても辛い治療でした。
話す力を感謝する
トムは脳梗塞の影響で失語症になり、長いリハビリになるという話でしたが、数週間後の礼拝に現れ、私たちを喜ばせてくれました。その上、立ち上がって話そうとしたので、驚きました。彼の言葉は不明瞭でたどたどしく、繰り返しや言い間違いもありました。しかし、明らかだったのは、神をほめたたえていたということです。心の痛みと祝福を同時に感じる瞬間がありますが、これはそのひとつでした。
常に感謝する
マルティン・リンカートは17世紀、ドイツのザクセン州で30年以上、牧師として働きました。それは疫病が蔓延したり戦時中だったり、という時代で、ある年には4千人以上の葬儀を執り行い、その中には妻の葬儀も含まれていました。食料不足で家族と空腹に耐える日々もありました。しかし、絶望的な状況下でもリンカートの信仰は揺るがず、絶えず神に感謝していました。実際、彼の感謝は、多くの人に愛される「いざもろともに」(聖歌291番)という賛美歌を生んだのです。
心からのありがとう
夫のアランは、就活中の息子ザビエルに礼状の書き方を教えました。また、長年企業で管理職をしている経験を生かして模擬面接をしてあげました。そして履歴書をしまっている息子に向かい、面接後に礼状を出すことを忘れないように念を押しました。息子は「分かっているよ。心を込めて礼状を書けば、きちんと対応してくれる、だよね」と言いました。後日、採用するという電話がかかってきたとき、担当マネージャーは、自筆の礼状をもらったのは、長年の経験の中でも初めてで、嬉しかったと言いました。
人をうらやまない
フランスの画家エドガー・ドガは、バレリーナの絵でよく知られていますが、友人でライバルのエドゥアール・マネをうらやむ言葉は、あまり知られていません。彼は、マネは「やることすべて、一発で決めるが、私は何度やっても上手くいかない」と語りました。
神から借り受けた祝福
友人のジェフと食事をしたとき、彼は「神よ、あなたの空気を吸い、あなたの食べ物をいただけることを感謝します」と祈りました。失業の憂き目を見たところなのに、心から神を信頼しつつ、すべてが神のものだと確信していました。私は感動しました。そして、私は、些細な日用品でも全部が神のもので、自分は単にそれを使わせてもらっているだけだと、本当に分かっているだろうかと自らに問いかけました。
他の人と比べない
友人のスーが昼食のときに何気なく「いずれフェイスブックに良いことばかりじゃなくて、全てを載せるわ」と夫に言ったと聞いて大笑いしました。ソーシャルメディアは、昔の友人や遠方の知人の近況を知ったり、彼らのために祈ったりできる利点がありますが、落とし穴もあります。生活の楽しい部分ばかりが投稿されているので、みんなの人生は順風満帆だと錯覚し、なぜ自分だけがこうも大変なのだろうと落ち込んでしまうかもしれません。
豊かさと苦しみ
アン・ヴォスカンプは著書『1000の贈り物』の中で、神がしてくださったことを毎日の生活の中で見つけなさいと勧めています。そうすれば、台所のシンクに虹色の泡ができた、という些細なことから、自分のような罪人にさえ救いが与えられたという大きなことまで、神が様々な形で豊かに施してくださっていることに気づきます。彼女は、感謝の心が、どんな苦境にあっても神を見出す鍵だと言います。