忘れないで
物質的な豊かさを罪悪視して、物を所有すること自体が悪だという考え方に、私は賛成できません。また、自分には消費者的志向があることも認めざるをえません。私は、個人的な感情で「欲しいもの」を「必要なもの」にしてしまう誘惑にしばしばかられます。
すべてのことに感謝する
私の娘は重いピーナツアレルギーで、ほんの少し口に入れただけでも生命にかかわります。そこで私たちは、食品の包装ラベルを綿密に調べ、どこに行くときも、アレルギー処方薬が入った注射器を持参します。外食をするときは、前もってレストランに電話し、メニューの品目についてしつこく尋ねます。
このように用心していても、娘の安全が守られる保証はありません。私は、こういう状況に感謝することはなかなかできません。しかし、神のみことばは「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサ5:18)と、チャレンジを与えます。神は私たちに感謝の心で祈って欲しいと語られるのです。それは、未来が不確かでも、悲嘆に暮れることが起こっても、家計が苦しくてもです。言い訳はできません。
苦境の中で感謝するのは容易ではありませんが、不可能でもありません。ダニエルは自分の身の危険を知りながら、「神の前に祈り、感謝して」いました(ダニ6:10)。ヨナは魚の中で、「感謝の声をあげて」叫びました(ヨナ2:9)。ふたりの例、さらには、神はすべてのことを働かせて益とし、ご栄光を現されるという聖書の約束(ロマ8:28)は、すべてに感謝できるように、私たちを鼓舞してくれます。
大盤振る舞い
小さな教会の牧師だったときのことです。私たちの教会は、大きな困難に直面しました。教会堂が安全基準に満たなくなって、高額の改修工事を行わない限り、そこで礼拝できなくなると当局に通知されたのです。必死に献金を募ったおかげで改修工事の費用は工面できましたが、ある人の献金について気になった役員がいました。
その人は高齢の女性の教会員でした。この工事のために数百ドルを寄付したのですが、彼女にはそのような余裕のないことを私たちは知っていました。それで私たちは、「お気持ちには感謝しますが、ご自分の生活も大切にしてください」と言って返金しようとしました。彼女の生活は教会の状況以上に大変だと思ったのです。ところが、彼女はお金を受け取りません。それは、台所の調理用コンロを買いたいと思って何年もかけて貯めたお金でした。今はまだ鉄板の上で料理をしているのだそうです。そして、教会の家族と共に礼拝する場所は、自分にとって、台所のコンロ以上に重要だと主張しました。私たちは、彼女の大盤振る舞いな献金にびっくりしてしまいました。
イエスはやもめが宮の献金箱に二枚の銅貨(最小価値の硬貨)を投げ入れるのをご覧になり、このやもめを褒められました(ルカ21:3-4)。それは献金が高額だったからではなく、彼女が所持金すべてをささげたからです。こういう献金が、神に栄光を帰すささげ物ですが、それだけでなく、私たちがいただいた大きな贈り物、すなわちキリストを思い出させてくれるささげ物です。
感謝をささげる
よちよち歩きの女の子が猫を追って道路に飛び出し、配達のトラックにひかれました。動かない身体を抱きかかえた両親の姿を、4歳の姉は凍りついて見つめていました。この事件は、彼女の家族を冷たい虚しさの中に閉じ込めました。悲しみに打ちのめされない唯一の方法は、無感覚になることでした。すべての感情は凍りつき、逃げ場はありませんでした。
この4歳の姉は作家のアン・ボスカンプです。妹の死による悲しみは、彼女の人生感や神観に影響を及ぼしました。彼女は、恩寵という概念のない世界で育ち、「喜び」でさえ実感を伴わない概念にすぎませんでした。
ボスカンプは新米ママだった頃、聖書が「喜び」と呼ぶ捉えどころのないものを探し始めました。すると「喜び」や「恵み」という言葉は、「カイロ」というギリシャ語に由来しており、この言葉は、「感謝をささげる」を意味するギリシャ語の中心部分だと分かりました。「こんなに簡単なことなの?」と、彼女は不思議に思いました。そして、事の真偽を試してみようと、彼女は自分に与えられている千の事柄について感謝をささげることにしました。少しずつ始めると、瞬く間に「何て感謝なんだろう」という気持ちがとめどなくあふれて来ました。
イエスは、ラザロを死からよみがえらせた後ではなく、その前に感謝をささげられました(ヨハ11:41)。妹とともに失われたアンの喜びの感情も、感謝をささげることで、よみがえってきたのです。喜びは感謝をささげると、与えられます。
恵みに満ちた神をたたえる
最近あるホテルに行った時のことです。ロビーには、目を見張るほど大きな生け花が飾ってありました。完璧とも言うべき色鮮やかなアレンジからは、優雅な香りが漂っています。私は足を止めて、しばしその美しさに見とれていました。それから、「ふんだんにある、満ちあふれる」ということには、どこか私たちの心を捉えるものがあると思いました。