Category  |  礼拝

暗闇で賛美

ミッキーは失明しつつありましたが「神を賛美しつづけるつもりだよ。だって、私のために大きなことをしてくださったのだから」と言いました。

自然を楽しむ

美しい夕日を求めて旅をしたり、散歩の途中に立ち止まって写真を撮ったりして、日没の景色を楽しもうとしたことはありませんか。最近、私たち夫婦は、メキシコ湾の夕日を眺めに出かけました。その海岸には、この日没という自然現象を見るために大勢の人が集まっていました。それぞれ知らない者同士でしたが、太陽が沈んで行き水平線から完全に姿を消すと、みんなで一斉に拍手をしました。

髪を下ろす

マリヤは十字架を前にしたイエスの足に香油を注いだだけでなく、自分の髪で主の御足を拭きました(ヨハ12:3)。彼女は一生かけて蓄えたかもしれない高価な香油のみならず自分の評判も犠牲にしました。というのは、当時、良家の女性は人前では髪を下ろさなかったのです。イエスを礼拝するためなら、何を言われても構わないと考えたのでしょう。真の礼拝は人の目を気にしません(Ⅱサム6:21-22)。

コシの勇気

トーゴ共和国のモノ河で洗礼を待つ間、コシは古びた不気味な木像をおこしておいた火に投げ込みました。彼の一族はずっとこれを拝んできたのです。これに最上の鶏をささげることは、もう二度とありません。

私の全て

教会の音楽には何かが欠けていると感じていた青年アイザック・ウォッツは、もっと良いものを作りなさいと父親に促され、挑戦しました。ウォッツの作品「十字架にかかりし」(聖歌158番)は、英語の賛美歌の傑作と言われ、多くの言語に翻訳されています。

「主の頭、主の手、主の足から悲しみと愛がまざって流れ落ちる、悲しみと愛が出会う、いばらで作られた貴い冠」(原詞訳)という歌詞は、私たちを十字架のもとに導きます。

ここから始めましょう

草地に小さな花がぽつりと咲いていました。イギリスの詩人トマス・グレイが詩で書いたように、私はこの紫の花は、荒野で無駄に咲いていると思いました。この花にわざわざ目を留める人はいないでしょう。それなのになぜ、ここで美しく咲いているのでしょう。

祝うべきお方

イエスの誕生を描いた絵などを見ると、多くの場合、東方の博士たちと羊飼いは同じときに来て、イエスを拝しています。しかし、博士たちの来訪が唯一記されているマタイの福音書を読むと、彼らの到着は少し後だったようです。それによると、イエスはもはや馬小屋の飼葉桶の中ではなく、家におられました。「その家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」(マタ2:11)と語られているとおりです。

個人的な話

ニューヨークの教会の外に、キリスト降誕を人形で再現した展示がありました。その飼い葉おけの中に、新生児が入れられているのが見つかりました。困窮した母親が赤ちゃんを暖かく包んで、助けてもらえそうな所に置いたのです。彼女を非難することもできますが、この子に生きるチャンスが与えられていたことを、神に感謝したいと思います。というのも、私自身が養子で、自分の出生について何も知らないからです。

賛美で取り囲む

映画にサラウンド音響を導入したのは、ディズニースタジオです。サラウンドとは取り囲むという意味ですが、新しいサウンドを客に提供したいと考えてのことでした。