のがれの町
オーストラリアのある町に行ったとき、「避難する場所を求めている方々を歓迎します」という看板がありました。この種の歓迎は、旧約聖書の「のがれの町」という考え方と一致しています。旧約聖書の時代、「のがれの町」(民35:6)というものがありました。間違って人を死なせてしまったために、復讐されないように保護を必要としていた人が逃げ込む町でした。神は、そのような場所を備えなさいと言われました。
愛することを学ぶ
ノルウェーの宣教師ハンス・エーゲデは1721年、グリーンランドに赴きましたが、先住民イヌイット族の言語が分かりませんでした。彼は時として威圧的で、人に優しくすることができませんでした。
黄金律
自分がしてもらいたいように他の人にしてあげなさいという教えは黄金律で、多くの宗教で語られています。しかしイエスの独特なところは、今日の聖書のみことばの「それで」にあります。イエスはまず、天の御父の寛大さを表されたのです。
イエスの愛
あまりないことですが、一日に3度同じ歌を聴きました。まず、昼過ぎに高齢者施設の合唱クラブに出席しました。祈って集会を終わろうとすると、入所者のウィリーが、「『主我を愛す』をいっしょに歌ってください」と言いました。夕方にはユースグループの集会に出席しました。そこで青年たちは、手拍子をしたり、足を打ち鳴らしたりして同じ曲を歌いました。その夜遅く、携帯電話にメールが届きました。メールには添付ファイルがついていて、それを開くと、2歳半になる姪の娘が可愛い声で「主は強ければ、我弱くとも…」と歌っていました。その日、90代、10代、そして幼児が、ひとつの歌を歌っていました。
野のゆりを見なさい
私は自然を楽しんで創造主をあがめるのが好きですが、やりすぎかしらと思って不覚にも罪の意識を感じてしまうことがあります。そんなとき、イエスは自然を例に引いて、人々を教えられたと思い出します。心配しないようにと励ますときは、小さな野の花を例にとって、「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」とおっしゃいました。花は労働をしませんが、神は美しく装ってくださいます。こんなにはかないものですら華やかに飾ってくださるのですから、私たちにはさらに良くしてくださらないわけがない、と結論づけられました(マタ6:28-34)。
愛の力
指導力について書かれた本がベストセラー入りをすることはよくありますが、そのほとんどは、どうすれば強い影響力を持った指導者になれるかという指南書です。しかし、ヘンリ・ナーウェンは「イエスの御名で ~ 聖書的リーダーシップを求めて」で、指導力について違う視点で書いています。著者は元大学教授ですが、成人の発達障害者施設で数年間働いていました。そしてこう書いています。「問われるべきは、どれだけの人間があなたに耳を傾けるか、どれだけのことを達成できるか、結果を出せるかではありません。あなたはイエスを心から愛しているか、なのです。…孤独と絶望に満ちた世の中で、神の心を分かっている人が本当に求められています。神の心とは、赦したり、心配したりする心です。手を差し伸べ、癒しを求める心です。」
無限の愛
子どもの頃、新聖歌31番がよく歌われていました。「大空紙とし、海原墨とし、木の枝筆とし、世人を集めて、主の愛記さば、紙も足らじ。」
造り主は癒し主
数年前、私はスキーの事故で片脚の筋断裂という大怪我をしました。医師は大量の皮下出血が起こっていると告げました。怪我はなかなか治りませんでしたが、治癒を待っているその間、私は偉大な創造主に畏敬の念を深めていきました(コロ1:16参照)。
真実の愛
弟の結婚式のリハーサルのとき、牧師の前で向き合っている新郎新婦の写真を撮りました。その写真を後で見てみると、後ろの金属製の十字架にフラッシュが反射して、明るい光が新郎新婦の上に降り注いでいました。