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ダイヤモンド・ダスト

私たちの住む地方は冬の寒さが厳しいので、天候について色々思います。3月になったのにまだ雪が降ると、ほとんどの人はもううんざりだと思い、低温続きの天気予報にがっかりします。しかしながら、雪の神秘的な美しさには、やはり感動させられます。来る日も来る日も雪かきをして、自分の背丈ほどの雪の壁が家の前にできましたが、この「白いもの」にはやはり魅了されます。ある日、氷の結晶が積もった雪の上に落ちてきました。私たち夫婦はその中を散歩していましたが、まるでダイヤモンド・ダストが降っているようでした。

違反きっぷの代わりに

ひとりの警察官が、チャイルドシート無しで幼児を乗せていた女性を停車させました。普通なら違反きっぷを切るのですが、代わりに、近くの店に行くように言い、自腹でチャイルドシートを買ってあげました。彼女は貧しくて、それを買うお金がなかったのです。

目覚めより素晴らしい

警察の世話になるようなことをして、「世間に顔向けできない。あぁ、自分の人生はもう終わりだ!」と思ったところで目が覚めた、という経験はありますか。もしそれが、単なる悪夢でなければどうでしょう。その状況が、自分自身または家族の誰かの現実だったらどうでしょう。

谷底から見る

罪を自覚する男と、聖なる神との距離について述べた、ピューリタン(清教徒)の祈りがあります。男は神に言います。 「私は谷底に連れて来られ…罪に取り囲まれつつ、あなたの栄光を見ます。」彼は自分の罪に気づきつつも、希望を捨てずに語ります。「星のきらめきは深い井戸の底からも見えるでしょう。深ければ深いほど、明るく輝いて見えるでしょう。」そして、「私の闇の中で、あなたの光を見つけさせてください…私の谷で、あなたの栄光を見つけさせてください」と彼の願いを記して、この詩は終わります。

取り換える

ジェンはテラスに座り、自分は本を書くべきだろうか、と自問していました。ブログを書いたり講演をしたりしてきましたが、神がもっと求めておられるかもしれないと、怖れつつも感じていました。 「本はみこころですか」と神の導きを求めました。

手を挙げる

ミネソタ州ノースフィールドのセント・オラフ聖歌隊の美しい歌声は有名ですが、その卓越した合唱の鍵は隊員の選別にあります。応募者の中から隊員を選ぶ際、その人の歌唱力だけでなく、全体に調和する歌声かどうかを確かめます。また隊員は、聖歌隊を最優先にして、厳しい練習と決められたコンサートに忠実に参加することを約束しなければなりません。これも、彼らが素晴らしい理由です。

ここから始める

砲撃でできた穴の中に、1944年6月6日、3人の米軍将校が身を寄せ合い潜んでいました。彼らは潮に流されて、ノルマンディーのユタ・ビーチの誤った地点に上陸したのです。しかし、「ここから戦いを始める」と決意を固めました。そして、困難な地点からスタートしたのです。

サウロもダマスコでイエスと出会って窮地に陥り、決断を迫られました(使徒9:1-20)。自分の人生の、立ち位置と方向性が間違いだったことが突然明らかにされ、それまでの人生は虚しいもののように感じられました。前進には、厳しくて不快な仕事を要します。自分が引き裂いた信者の家族に、向き合うことさえあるでしょう。彼は「主よ、私はどうしたらよいのでしょう」と尋ねました(使徒22:10)。

私たちはしばしば、想定外の立場や、自分の計画でも願いでもない状況に置かれることがあります。ローンの返済に困っていたり、病気になってしまったり、罪の呵責(かしゃく)に苦しんでいる人がいるかもしれません。キリストに出会ったとき、刑務所にいても豪邸にいても、心敗れ無一文でも自分勝手な欲にまみれていても、後ろのものを忘れて、キリストに向かってひたむきに前進しなさい、というパウロの忠告に従うように聖書は勧めます(ピリ3:13-14)。キリストといっしょなら、過去は前進の妨げになりません。

責任のなすりあい

今までに色々と責められたことがありました。私の罪や失敗、実力不足などのせいで、家族や友人(そして恐らく赤の他人)を悲しませたり、不安にしたり、迷惑をかけたりしたのですから、それはもっともです。一方、私の責任ではないことや、私にはどうすることもできないことなのに非難されたこともあります。

走り寄る父

息子の帰りを待ちわびていた父は、毎日、家から延びる道の向こうを見ていました。そして夜になると、がっかりして床に就きました。しかし、ある日、小さな点が見えました。やがて赤く染まった空に人影が見えました。あの子ではないだろうか…歩き方に見覚えがあります。そして、あの子にちがいないと思うや、「まだ家までは遠かったのに…彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけし」ました(ルカ15:20)。中東の文化では、族長が走るなどということは威厳を損なうことでしたから、これは尋常ではありません。しかし、この父は、息子が帰還した喜びを抑えきれませんでした。