Category  |  赦し

暴露したい心

アメリカの私立探偵は、ドアを叩いて出て来た人にバッジを見せ、「私たちがここに来た理由をご説明する必要はありませんね」と告げるそうです。大抵の場合、相手は唖然として「どうやって分かったんだ」と答え、ずっと昔に犯し、隠しつづけてきた昔の犯罪について話し始めるそうです。ロン・ロゼンバウム氏は、スミソニアン誌に次のように記しています。「良心とは人間の根幹にあるパワーだ。心は隠しごとを暴露したくてうずうずしている。このエネルギーに出口を与えればよいのだ。」

罪をやっつけた正義の味方

少し前ですが「あなたが罪を犯さないでいられた、一番長い期間とはどのぐらいですか。一週間、一日、それとも1時間ですか」と尋ねられました。なかなかきびしい質問です。正直な人なら、罪を犯さなかった日は一日もないと言うでしょう。しかし、この一週間を振り返って、神に「〇〇の罪を犯しました」と告白したことがあるかというと、それは無いかもしれません。そういう場合でも、この一週間、思いでも行いでも、まったく罪を犯さなかったと言うなら、それは自分を欺いていることになります。

過去と向き合う

刑務所伝道団体「プリズン・フェローシップ」の創設者であるチャールズ・コルソンは、40年間、イエス・キリストの福音を受刑者に伝える働きをしてきましたが、2012年4月に召天しました。ある新聞は、「『ニクソン時代の汚れた詐欺師』チャールズ・コルソン死去、80歳」という見出しで彼の死を伝えました。昔、大統領補佐官だった頃、コルソンは政敵に対して冷淡な人でした。しかし、救い主キリストに出会って、すっかり変えられました。これほどの変貌を遂げた人の訃報が、このように伝えられたことに、少なからず驚いています。

解放の原則

ゲイル・ブランキは自著「今すぐ50個手放しなさい!」で、「手放しのルール」として、人生から「がらくたの山」を一掃する方法を記しています。最初の原則はこれです。「もし、それを見ると落ち込んだり、ひっかかったり、自分で自分が嫌になったりするなら、それを捨てるなり、誰かにあげるなり、売るなりして、自分の前から消し去りなさい。そして、前進しましょう。」

立ち直る

トリニティー大学のスカッシュチームは大学スポーツ史上最長の252連勝を誇っていましたが、2012年1月18日、エール大学に破れ、この記録に終止符を打ちました。14年ぶりの敗戦の翌朝、コーチのポール・アサイアント氏は、「さあ、切り替えてまた頑張れ」というメールを友人から受け取りました。そのメールを送った有名なアメフトのコーチは10日後、全米で最も人気のスポーツイベント、NFLスーパーボウルで敗北しました。私たちはみんな、それぞれの敗戦に耐えなければなりません。

C.S.ルイスからの手紙

ニューヨーク市のブルックリンに住んでいた高校生ハーヴィ・カールセンは1961年9月、イギリスのC. S. ルイスに手紙を書きました。ルイス著の『悪魔の手紙』を読んだハーヴィは、「この本を執筆中、サタンの妨害を受けましたか。もし受けたなら、どうやってそれに対抗しましたか」と質問しました。

悪かった

義理の息子とスポーツ観戦に行ったとき、試合だけではなく人間ウォッチングもすることになりました。人間の良い面と悪い面の両方を見せてくれた人がいたからです。その人はスタジアムで迷子になって、自分の席に帰れなくなっていました。それで立って辺りを見回していたのですが、それが私たちの視界をさえぎるような場所でした。座っていた人は試合が見えないので、「どいてくれないか。見えないじゃないか」と言いました。するとその迷子の男性は、「そりゃ気の毒だな」と皮肉たっぷりに答えたのです。そして、もう一度言われると、今度は怒気を含んだ声で同じ言葉を繰り返しました。しばらくすると、その男性はようやくあっちに行きましたが、驚いたことにすぐに戻ってきて、見えないと文句を言った男性に、「さっきは悪かったな。実は席が見つからなくてイライラしていたんだ」と言ったのです。ふたりは握手をして、この件は友好的に片付きました。

彼らのやり取りを見て、私は考えさせられました。日々の生活の中で、自分の思うとおりにならなくてイライラし、キリスト者として恥ずかしい言動をしたことがあるかもしれません。もしそうならば、私たちは失礼をした相手に謝る勇気をくださいと、神に願わなければなりません。イエスによると、そうするか否かで、私たちの礼拝が受け入れられるかどうかが決まるのです(マタ5:23-24)。

和解を優先事項にしているなら、私たちは、神に栄誉を帰しています。天の父との交わりを十分に楽しむことができるのは、和解した後のことです。

バンパーカー

人生は遊園地にある「バンパーカー」によく似ています。衝突されることは承知で車に乗り込みますが、その衝突が、どの程度になるかは分かりません。そして、衝突されると、アクセルを踏んで相手の車を追いかけ、もっと強く当たろうとします。

これはバンパーカーならば面白いかもしれませんが、人生の戦略としてはいただけません。「衝突されたら仕返しをする」ということなら、その態度は問題を悪化させるだけで、結局のところ、みんなが苦しむことになります。

イエスはより良い戦略をお持ちでした。つまり、相手を赦すのです。私たちはペテロのように、「いったい何度、赦さなければならないのか」と疑問に思うかもしれません。ペテロが「七度まででしょうか」と尋ねると、イエスは「七度を七十倍するまで」と答えられました(マタ18:21-22)。言い換えれば、「恩寵」に限度はないのです。私たちは常に赦す姿勢でいなければなりません。なぜでしょう。イエスが借金を免除する主人のたとえ話で教えられたことによると、人を赦す理由は相手がそれに値するからではなく、自分が赦された存在だからです。たとえ話の主人は、「おまえがあんなに頼んだから…赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」と語っています(32-33節)。

私たちは多くを赦された者ですから、問題の悪化をとどめ、人々と祝福を分かち合いましょう。

教訓

夏のある日、高校の同窓会に出席すると、後ろから肩をたたく人がありました。私は、その女性の名札を見ながら、当時の記憶をたどりました。すると、小さく折りたたんだ紙が、私のロッカーにねじ込まれていた事件を思い出しました。その紙には、悪意に満ちた誹謗中傷の言葉が乱暴に書かれていました。私は深く傷つき、「なんて無神経な人なんだろう」と思ったものでした。青春の痛みがよみがえってきたように感じましたが、作り笑いを浮かべて彼女と適当に話をしました。

ところが彼女は、不遇な幼少時代や不幸な結婚生活について次々と話し出しました。その時ふと、「苦い根」(ヘブ12:15)という言葉が心をよぎりました。「ああ。そうなんだわ」と、私は思いました。長い間、この「苦い根」が私の心に張っていたのです。そして、私の心をがんじがらめにしていました。

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ12:21)という聖書のみことばが心に浮かびました。私たちは語り合い、ともに涙を流しました。ふたりとも過去の出来事には触れませんでした。

その日の午後、私は思い知らされました。心の中にぎゅっと押し込めていた苦々しい気持ちを解き放って、神に委ねなければならないと。神は私に赦すことを教えてくださいました。