神がご自身を現される
子どもの祈りから、その子の神観が分かります。最近読んだものをふたつ紹介しましょう。「愛する神さま、あなたが『ねたむ神』というのはどういう意味ですか。あなたは何でも持っておられると思っていたのに。」「火曜日にあなたが創られた夕焼けを見るまでは、オレンジ色と紫色は合わないと思っていました。すっごくきれい!」
隠れようがない
何かが焦げているような臭いがしたので、急いで台所に行きましたが、コンロもオーブンも大丈夫です。臭いをたどりながら家中を巡って階下に降り、鼻を頼りに進んでいくと、私の仕事部屋にたどり着きました。そして、机の下を覗き込むと、「香り豊かな」飼い犬のマギーが、「助けて」と目で訴えています。2階で焦げ臭いと思った臭いは、スカンクのガスだったのです。
ダメと言われたら
湖畔にあるマーティの別荘に初めて行ったとき、彼は「ダメと言われない限り、いつ、どこで、何をしてもいい。それがここのルールだよ」と言いました。マーティと妻のリンは友人を別荘に招待することが大好きで、客人が自由に楽しいときを過ごせるように配慮してくれます。私たちは、手漕ぎボートやヨット、モーターボートが並んでいるのを目にし、ワクワクしました。
良い香り
ケイティはリンダに誘われて、教会の中高生の食事会に行きました。彼女は幼いころに少し教会に行っていただけなので、知らない人ばかり集まる教会の食事会に少し緊張していました。けれども、自分の席にカードが置いてあるのを見て気持ちが落ち着いてきました。それぞれの席に、皆が寄せ書きをしたカードが置かれていましたが、飛び入りの自分にも同じように寄せ書きカードが準備されていました。ケイティはメンバーの温かさにじんときました。
頭からこころへ
子どもの頃のピアノの先生は、暗譜にこだわる人でした。一曲を間違わないで弾くというだけでは十分でなく、何曲かを連続して弾いて、どれも完璧でなくてはいけませんでした。その理由は、ピアノを弾いて欲しいと人に言われたときに「ごめんなさい、楽譜がないから弾けません」と言わなくても良いように、ということでした。
子どもの頃、聖句の暗記もしました。詩篇119篇11節も覚えました。私は幼かったので、聖書を暗記すれば罪を犯さないのだと信じ、一生懸命暗記しました。暗唱聖句で表彰され「ムーディ・バイブル・ストーリー」の本をもらったこともありました。
聖書を暗唱することは良い習慣ですが、覚えるだけで罪を犯さなくなるわけではありません。私も表彰されてまもなく、聖書のみことばを頭に叩き込んだけれども、私の態度や行動にはあまり反映されていないと気づきました。知識があるというだけでは罪に打ち勝てるはずもなく、むしろ罪悪感ばかりが募りました。
やがて、私は主のみことばを全人的に理解すべきだと気づきました。つまり、音楽家が演奏曲を自分のものにするように、私もみことばを自分のものとし、心にたくわえるのです。私たちは聖書のみことばを引用するのと同じぐらい、聖書のみことばを行わなければなりません。みことばが私たちにとって、単なる頭の知識から心の宝へと変化するにつれ、罪の影響力は失われていきます。
ルツの選択
聖書の時代、夫を亡くした女性は貧しい暮らしを強いられました。ルツと姑のナオミも例外ではありません。しかし、神はご自分の大きなご計画にルツを組み入れながら、ふたりの生活を守るように計らわれました。
簡潔な証
過去15年間、ダン・スミスの名前と顔が載ったチラシが、ニューヨーク中の喫茶店、コインランドリー、商店に貼られてきました。そこには、「ダン・スミスがギター教えます」と簡潔に書かれていました。そのおかげで、スミス氏はギター講師として忙しい毎日を送っています。熱心な生徒たちは、「私はダン・スミスにギターを教わりました。あなたもいかがですか」と紹介し、別の場所にもチラシを置いてもらうように頼んでいます。
地図の真実
カーナビは目的地までの最適な経路を教えてくれる新しい機器ですが、私たち夫婦は、いまだに地図を用いて道を探しています。たいていは夫のジェイが運転するので、当然、地図を見るのは私の役目です。私は普段は方向音痴ではないのですが、動いている車の道案内は得意ではありません。
隠すもの
隠したいものがあるなら、マイク・スラッテリーに相談するとよいかもしれません。数年前、ある携帯電話会社が、マイクの所有地にアンテナを立てさせてほしいと話を持ちかけました。そして、景観を守るために、アンテナをやしの木に見せかけると言うのです。しかし、マイクには、より良いアイデアがありました。電波を通すビニールパネル製の、家畜小屋を装った小屋を建てるのです。後に彼はこのアイデアをもとに、美観とセキュリティという観点から、アンテナを隠す建物を作る会社を設立しました。マイクは、家畜小屋には牛も馬もおらず、アンテナだけがあるとは近所の人も気づいていないと確信しているそうです(コロラドスプリングスのガゼット新聞より)。
私たちにも、人に見られないように隠しているものがあります。それは、散らかった物置部屋のような害のないものかもしれませんが、一方で、非常に有害なものを隠しているかもしれません。自らの道徳的もしくは霊的な欠点を直視せず、人どころか神にさえも隠そうとしているかもしれません。
詩篇32篇でダビデは、罪を隠そうとする無益な行為(3-4節)と、本当のことを神に打ち明けて安堵する喜びを記しています。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」(5節)。
神に自らの罪を告白し、その罪を捨て去るなら、たましいが自由になったと感じます。そして、もう何も隠さなくてよいのだと安心させてくれます。