木漏れ日
コロラドスプリングス在住の画家、ボブ・シンピッチの作品に、「光の跡」があります。秋の太陽に照らされた、黄金色のヤマナラシの木立を描いたものです。てっぺんの葉は、きらきらと照らされ輝いている一方で、下の地面は、日なたと日陰が混ざり合っています。シンピッチはこの明暗について、「木漏れ日が地面を照らす様子がたまりません。特別な雰囲気をかもし出すのです」と語りました。
嵐の中で
今にも嵐が来そうでした。窓の外だけでなく、家の中にも…。私の友人は言いました。「香港にいたとき、暴風雨が近づいていました。窓の外では雨風が強くなっていましたが、家の中にも嵐の予兆がありました。父親が入院していて、私たちは、各々の家庭と仕事を両立させながら病院通いをつづけていました。看病疲れで、皆もう限界でした。家には緊張した空気が漂っていました。」
嵐の中のキリスト
レンブラントは27歳のときに、マルコの福音書4章の話に基づいてガリラヤ湖で嵐を静めるキリストの絵を描きました。荒れ狂う嵐の中で難破の危機にさらされた小さな舟が、光と影の見事な対比の中に描かれています。弟子たちは暴風と大波にうろたえていますが、イエスは平静です。この絵のおもしろいところは、舟に乗っている13番目の弟子が描かれていることです。美術評論家はレンブラント自身だろうと言います。
自分を超えていく
どこを取っても自分より優れている友人がいます。彼は私より賢く、思慮深く、より良い本を見つけてきます。ゴルフだって、私よりも上手です。彼と話をしていると、もう少し思慮深くなって、より良い人間にならなければとチャレンジを受けます。彼の優秀さと向上心は、「もっと頑張ろう」と私を良い方向に駆り立ててくれます。
友を得る
ソーシャルメディアの急速な普及は、皮肉にも、人間の孤独を深めています。あるオンラインニュースは、次のように警告します。「過度なネット依存や、ネット上のみにつながりを求めることは危険であるという見方がある。それによると、ネット上の仮想の友だちは実際の友だちの代わりにはなれず、そうしようとすると、さらに孤独や憂うつを感じるという。」
恐れのある所に
結婚して12年が経っても私たち夫婦には子どもが与えられず、妻と私は、希望と失望を繰り返す激しい感情の波にもまれていました。友だちの中には、「君が良い父親になれないと、神は知っておられるのかもしれないよ」と、神の思い(?)を説明した人もいました。この友人は、私の母が非常に気性の荒い人だったのを知っていたからです。
空っぽではない
孫のジュリアは夏休みに、ウガンダのブシアにある孤児院で実習生として働きました。最終日に子どもたち一人ひとりに「さよなら」を告げに行くと、スマヤという少女はひどく悲しんで言いました。「明日、あなたが行ってしまい、来週には他の実習生のお姉さんたちも行ってしまう。」ジュリアが「そうね」と言うと、スマヤはしばらく考えて叫びました。「私たちは空っぽになってしまう。誰一人残らない!」ジュリアは、もう一度、そのとおりだと言いました。少女はまた、しばらく考えると、今度はこう言いました。「でも、神さまが私たちといっしょにいてくださる。私たちは空っぽにはならないわ。」
恐れ知らずのチャンピオン
子どものとき、眠ることは大変な仕事でした。親が部屋の灯りを消して出ていった途端、イスの上にしわくちゃのまま脱ぎ捨てた洋服は、口から火を吹く竜の形になります。ベッドの下にも何かがいるような気がしてドキドキしました。そんなこんなで、怖くて眠れなかったのです。
苦難のときにも動じない
父親の自慢をする子どもがいます。近所の子どもたちの会話に耳を傾けてみると、「〇〇くんのパパより、ぼくのパパの方が大きい!」とか、「〇〇ちゃんのパパより、あたしのパパの方がえらい!」とか言い合っています。そんな中でも一番の自慢は、「ぼくのパパのほうが、〇〇くんのパパより強い!」です。これは大抵の場合、けんかに負けそうな子が相手に対して発する警告です。いいかげんにしないと、ぼくの父さんがやって来てぎゃふんと言わせるぞ、そのときは君の父親も一緒だからな、というわけです。