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私の味方

小柄な体操選手のギャビー・ダグラスは、ロンドン・オリンピックでふたつの金メダルを獲得したときの記者会見で、「神は私を決して見捨てず、いつも私の味方です」と言いました。

記憶する賜物

神学生の頃、老人ホームで働いていました。入居者の人たちの話に耳を傾けていると、ほとんどの人が、会話の端々で「今の生活は寂しい」と打ち明けました。友人たちはすでに亡く、自分がこの世を去ったとき、懐かしんでくれる人がいるだろうかと憂えているのです。

黙れ、静まれ

友人のエルイーズは、ものごとを正しい視点でとらえる賢い人です。あるとき、「調子はどう?」と尋ねたら、「悪くないわ」といういつもの返事のかわりに、「イエスさまを起こしに行かなくっちゃ!」と答えました。どういうことかと思ってさらに尋ねると、「あら、聖書に書いてあるでしょ」とにっこり笑います。そして、「弟子たちが嵐に遭ったとき、イエスさまを起こしに行ったでしょう。私も助けてもらいに行くところなの」と言いました。

抜き差しならない状態に陥って、逃げ道が見当たらないという場合、あなたならどうしますか。生命の危険さえ感じる嵐の中にいた弟子たちのように、私たちもイエスに助けを求めて走っていくかもしれません(マコ4:35-41)。けれども、時には、問題の発端となった人を中傷したり、復讐しようとしたり、もしくは嘆きの渕に落ち込みながら、恐れて身を隠したりして、問題を切り抜けようとします。

そんな私たちは、イエスを唯一の助けとして逃げ込んだ弟子たちから学ばなければなりません。たとえ、イエスが即座に問題を解決してくださらなかったとしても、イエスは同じ船に乗っていてくださいます。それが分かっているのといないのでは、雲泥の差です。

ありがたいことに、イエスは私たちが人生の嵐に遭遇するとき、いつもともにいて、「黙れ、静まれ」(39節)などとおっしゃってくださいます。ですから、嵐に遭ったらイエスを探してすぐそばにおられることを確認しましょう。そして、イエスがおられることの平安で心を満たしていただきましょう。

見捨てられていない

何年も前、夫婦でワシントンDCにあるスミソニアン航空宇宙博物館を訪ねた時のことです。ホールに一台のベビーカーがぽつんと置かれ、そばには誰もいませんでした。たぶん持ち主はかさばるベビーカーを置いて、子どもだけを抱いていったのだろうと思いました。ところが、そばに寄ってみると、赤ちゃんが中で寝ているではありませんか。親はどこにいったのでしょう。兄弟、それともベビーシッターがいるのでしょうか。しばらく待ってみましたが、これは自分の大切な赤ちゃんだと言う人は現れません。それで、博物館の職員を呼び、赤ちゃんが安全なところで保護されるのを見届けて、その場を離れました。

このことがあって、「見捨てられる」ということについて考えさせられました。それは、この世の誰にも求められていないと痛切に感じることです。どれほどの悲しみでしょう。しかし、人が見離したとしても、神は違います。神の愛と臨在は確約されています。神は、決して私たちを見捨てないと約束され(申31:8)、どこへ行くときも共にいる、いつも必ず、世の終わるときまで一緒にいると言っておられます(マタ28:20)。

私たちは神の子どもであり、神がご自分の子に対する責任を放棄することはいっときとしてありません。神はいつもかかわっておられます。誰に捨てられても、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ロマ8:35-39)という神の約束を固く信じることができます。

価値あるもの

今までの人生で集めたものや、捨てずにとっておいたものがたくさんあります。その中には、以前は大切だったけれど、今では当時の輝きが失せた物も多くあります。それなのに私は性懲りもなく新しいものを見つけ、自分のコレクションを増やしていくことにワクワクしてしまいます。

私たちは、これも大事、あれも大事と色々なものをため込んでしまいます。ところが、本当に価値のあるものはごくわずかです。事実、人生で最も価値あるものは、物ではないでしょう。私は年とともに、そのことが分かってきました。人生で何よりの宝は、私を愛し、私の人生に関わってくれた人たちです。「あの人がいなかったら大変だ」と心の中で言える人たちこそが、何よりも大切な存在なのです。

ペテロはイエスが「選ばれた石、尊い礎石」だと語りましたが(Ⅰペテ2:6)、そのことばに、私たちの心も共鳴すべきです。イエスこそが本当に価値あるものです。何物にも、何人にもまして大切なお方なのです。もしイエスがいつも一緒にいてくださらなかったなら、私たちは大変なことになっていたでしょう。イエスの賢明なアドバイス、絶対的な導き、慈愛のこもった忍耐、変革を促す叱責がなかったなら、私たちはどうなっているでしょう。イエスなしで、どうやって生きていけるでしょうか。そんなことは、想像すらできません。

恐れを覚えるとき

長男が生まれたときは大変な難産で、30時間以上もかかりました。その日の医師は妻の担当医ではなく、代理の医師だったので、妊娠中の経過をよく知りませんでした。その結果、緊急帝王切開を行う決断をするまでに時間がかかりすぎました。息子は大変な状況を経て深刻な状態で生まれてきたので、すぐに新生児集中治療室に入れられました。ところが、この小さな命が難産によって引き起こされた深刻な症状を乗り越えていくために、医師ができることは何もなかったのです。しかし、神のあわれみにより、息子は回復していきました。

あれほどの恐怖を味わったことは、後にも先にもありません。私は、集中治療室のベビーベッドのかたわらで凍りついていました。しかし、祈り心で神に語りかけるなら、神がそばにいてくださるという確信がありました。

人生で恐れを覚えるとき(そのほかのどんな時にでも)、神のご臨在を実感し、神が心配していてくださると分かるならば、痛んでいる心に大きな慰めが与えられます。詩篇の作者であるダビデは、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」と賛美しました(詩23:4)。

恐れに圧倒されるときでも、神はそばにおられます。神のなぐさめは、試練の谷を抜けるまでずっと一緒に歩んでくださいます。

人生で最良の時

人生は、まるで移り変わる季節のようです。私たちは、自分が望むか否かに関係なく、次の季節へと押し出されます。そして、次の季節に何が待ち受けているのだろうかと不安になったり、恐れることさえあります。

特に老年になると、そうではないでしょうか。自分は一人っきりになるのだろうか。元気でいられるだろうか。お金に困ることはないだろうか。認知症にならないだろうか等々。私たちは、人生の節目節目で選択しなくてはなりません。悪いことばかり考えて時間を無駄にするのか、それとも、「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです」(エペ5:16)というパウロの励ましに応答して生きるかです。

どんな季節であっても、神の誠実は変わりません。神は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われます(ヘブ13:5)。ですから、私たちは、「主は私の助け手です。私は恐れません」と大胆に言うことができます(ヘブ13:6)。

あなたには神の臨在と神の備えがあるので、人生のどんな場面でも、イエスに忠実に従い、イエスのみことばと祈りの中に身を置き、かつてないほど自由に愛したり赦したりして、喜びと寛容をもって人に仕えることができます。こうして、あなたは機会を十分に生かすのです。

神は、今という季節をもって私たちを祝福しておられます。さあ、これを最大限に生かしましょう。

代理人は不要

サンディエゴにいる息子のスティーブのところに滞在していたとき、デビッド・ジェレミア博士の礼拝メッセージを聞きにシャドウ・マウンテン教会に行くことにしました。息子とふたり、日曜日の朝早起きして、車で1時間かけて教会に行ったのですが、ジェレミア博士は不在だと聞いてがっかりしました。代理の「だれかさん」が礼拝説教を取り次いでいました。

それから2週間後、私は、自分たち夫婦が通っているグランド・ラピッズの教会で礼拝メッセージをしました。その朝、会衆の前に立ったとき、私は自分があの「だれかさん」だと気づきました。この教会の牧師のメッセージを聞こうとしてやって来たのに、登壇したのが私だったので、がっかりした人がいるかもしれないと思いました。

頼りにしているいつもの人が、いつもどおりいてくれると安心ですが、ときには代理人が立てられることもあります。私たちは、そのことを分かっていなければなりません。しかし、私たちが最も必要としているお方、私たちにいのちそのものを与えてくださる主は、いつも私たちのそばにおられます(詩139:7-8)。祈って神のご臨在にふれたいと思うなら、神はあなたのかたわらにおられます。「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」と聖書は語ります(55:17)。

神を探しているのですか。神はいつもおられます。神に代理人は不要なのです。

古き良き時代

私たちは時々、「古き良き時代」を懐かしく思い出します。しかし中には、過ぎた日の思い出は辛い記憶でしかないという人もいるでしょう。眠れぬ夜の闇の中、過去の失敗や失望、叶わなかった夢などがよみがえってきて、人生が自分にひどい仕打ちをしたのだと思い出してしまいます。

過去を思い出すときは、ダビデに倣ってみませんか。神の良くしてくださったことに思いを巡らし、じっくり考えるのがよいでしょう。ダビデは、「あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています」と述べています(詩篇143:5)。神の慈しみを思い出そうとするなら、ずっと以前から主の恵みを受けてきたことに気付きます。このような記憶は最良のものを育てます。さらに深く神を求めたり、今以上に神に取り扱っていただきたいと真摯に求める気持ちを呼び起こします。このようにして過去を思い出すなら、それは神を良く知り、神と深く交わる機会となるのです。

ある老婦人が、ロッキングチェアに座って両手を膝の上で組み、何時間も遠くを見つめていたそうです。ある日娘が尋ねました。「お母さん、静かに座って何を考えているの?」すると、彼女は目をきらりと輝かせて、静かに答えました。「それはね、イエスさまと私との秘密よ。」

私たちの思い出や黙想が、私たちを主のみもとに引き寄せてくれますように。私はそう祈ります。