修繕か交換か?
窓枠が汚くなってきたので、汚れを取り、傷を埋め、紙ヤスリをかけて下地を塗り、奮発して高いペンキを買って塗り直しました。そこそこきれいになりましたが、新調したようには見えません。そう見せたいなら、新品に取り換えるしかありません。
フェンスに触るな!
子どもの頃、両親といっしょに曾祖母の家へ遊びに行きました。曾祖母は農場の脇に住んでいて、牛が家の敷地に入らないように、家の周りには電流の通ったフェンスが張られていました。外で遊んでもいいかと尋ねると、よいけれど、フェンスに触れると感電するので気を付けるように言われました。ところが、私はその警告を無視してフェンスに指を触れてしまいました。その瞬間、ビリビリっと電気が走りました。私は、両親の警告は私のためだったと悟ったのです。
火遊び
幼い頃、火遊びは絶対にいけないと母に言われていました。しかしある日、やってみたくなったのです。マッチと紙くずを持って裏庭に行き、しゃがみこんで、どきどきしながらマッチを擦りました。
谷底から見る
罪を自覚する男と、聖なる神との距離について述べた、ピューリタン(清教徒)の祈りがあります。男は神に言います。 「私は谷底に連れて来られ…罪に取り囲まれつつ、あなたの栄光を見ます。」彼は自分の罪に気づきつつも、希望を捨てずに語ります。「星のきらめきは深い井戸の底からも見えるでしょう。深ければ深いほど、明るく輝いて見えるでしょう。」そして、「私の闇の中で、あなたの光を見つけさせてください…私の谷で、あなたの栄光を見つけさせてください」と彼の願いを記して、この詩は終わります。
完璧という呪縛
医師のブライアンは、ミスは許されないという姿勢で治療にあたってきました。しかし、入院は不要と判断した患者が一日も経たずに再搬送され、翌日亡くなりました。彼は打ちのめされ、今度こそ完璧にと努めましたが、完璧は不可能と学んだだけでした。
失敗は破滅ではない
チャーチル首相は第二次世界大戦中、国民を鼓舞することに長けていました。1940年6月18日、彼は恐れる民衆にこう語りかけました。「ヒットラーは、我々を倒さなければこの戦争に負けると知っている…よって、腹をくくって、大英帝国が数千年つづいたとしても、『あれが彼らの最盛期だった』と人々が言うようになると決意を固めよう。」
誰でも自分の盛んなときを覚えていてもらいたいものです。使徒ペテロの最盛期は恐らく、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と信仰を告白したときでしょう(マタ16:16)。他方、私たちは自分の失敗によって自分の器の大きさを決めてしまいがちです。ペテロは繰り返しイエスを知らないと言い、外に出て、苦い涙を流しました (マタ26:75、ヨハ18章)。
私たちもペテロと同様、神の基準に届く者ではありません。信仰、人間関係、罪の克服、神に対する忠誠や従順、どれをとってもそうです。しかし、チャーチルの名言にあるように、失敗は破滅ではありません。感謝なことに、霊の生活においても同様です。イエスは、自分の失敗を悔い改めたペテロを赦し(ヨハ21章)、彼を伝道者として用いて、多くの人をご自分のもとに導かれました。
失敗は破滅ではありません。神は帰って来る人をいつくしみ、挽回させてくださいます。
暗闇に光
ペルーに行ったとき、数ある山岳地帯の洞窟のひとつを訪れました。ガイドによると、この洞窟は非常に深いのですが、約14キロメートルの深さまでは既に調査済とのことでした。私たちはこうもりや夜行性の鳥、興味深い岩石層などを見学しました。しかし、ほどなく闇に不安がかきたてられ、息が詰まりそうに感じました。地上に戻って日の光を見た時は、ほっとしました。
責任のなすりあい
今までに色々と責められたことがありました。私の罪や失敗、実力不足などのせいで、家族や友人(そして恐らく赤の他人)を悲しませたり、不安にしたり、迷惑をかけたりしたのですから、それはもっともです。一方、私の責任ではないことや、私にはどうすることもできないことなのに非難されたこともあります。
後に来る罰
ある牧師のメッセージが地方紙に載っていました。その牧師は、紹介されたばかりの年配の男性と「電力会社で働いていたとおっしゃいましたね」といって会話をつづけました。彼が「ええ、そうです」と答えたので、牧師は、子どもの頃に住んでいた家の敷地内に、その会社のケーブルが通っていたと言いました。男性は「どこに住んでいたのですか」と質問し、牧師が答えると、「その家のことは覚えています」ということでした。「あそこは、ケーブルの警告版で苦労しました。上げても、上げても、子どもたちが撃ち落としてしまいましたから。」牧師が、恥ずかしさで顔を赤らめると、「あなたは、あの狙撃犯のひとりでしたか」と言われました。そのとおりだったのです。