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教訓

夏のある日、高校の同窓会に出席すると、後ろから肩をたたく人がありました。私は、その女性の名札を見ながら、当時の記憶をたどりました。すると、小さく折りたたんだ紙が、私のロッカーにねじ込まれていた事件を思い出しました。その紙には、悪意に満ちた誹謗中傷の言葉が乱暴に書かれていました。私は深く傷つき、「なんて無神経な人なんだろう」と思ったものでした。青春の痛みがよみがえってきたように感じましたが、作り笑いを浮かべて彼女と適当に話をしました。

ところが彼女は、不遇な幼少時代や不幸な結婚生活について次々と話し出しました。その時ふと、「苦い根」(ヘブ12:15)という言葉が心をよぎりました。「ああ。そうなんだわ」と、私は思いました。長い間、この「苦い根」が私の心に張っていたのです。そして、私の心をがんじがらめにしていました。

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ12:21)という聖書のみことばが心に浮かびました。私たちは語り合い、ともに涙を流しました。ふたりとも過去の出来事には触れませんでした。

その日の午後、私は思い知らされました。心の中にぎゅっと押し込めていた苦々しい気持ちを解き放って、神に委ねなければならないと。神は私に赦すことを教えてくださいました。

両手を広げて

ベティ・フォード元アメリカ大統領夫人の葬儀で、息子のスティーブンはこう言いました。「母は愛と慰めに満ち、誰よりも先に手を差し伸べてくれる人でした。19年前、アルコールに溺れていたとき、母から最も素晴らしい贈り物をもらいました。それは、どのようにして自分の人生を神に明け渡し、神のあわれみを受け取ればよいのか、という教えです。私は母の腕の中で、自分が帰還した放蕩息子であると感じました。母を通じて神の愛を体験しました。それは素晴らしい贈り物でした。」

ある青年が父親に財産の分け前を求め、放蕩し、不面目にも帰宅したというイエスのたとえ話があります。そこで驚かされるのは、その父の反応です。聖書は語ります。「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」(ルカ15:20)。この父親は、諭したり、罰したりするのではなく、祝宴を催すことで、自らの愛と赦しを息子に表しました。何故でしょう。それは「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった」からでした(24節)。

スティーブン・フォードは、追悼の辞をこう締めくくりました。「母さん、神が示されたように、みんなを愛してくれてありがとう。父さんと僕たち子ども、そしてアメリカ国民を愛してくれてありがとう。」

大きく両手を広げ、ご自分に立ち返るすべての人を受け入れてくださった神のように、私たちも人を受け入れ、人に親切にできるように、神に助けていただきましょう。

新鮮な目で見る栄光

ニュース番組「グッド・モーニング・アメリカ」は、毎夏、「アメリカで最も美しい場所」を選ぶ視聴者投票を行います。2011年にはミシガン州のスリーピング・ベア砂丘国立湖岸が選ばれました。私は近くに住んでいるので、大変うれしく思いましたが、国中で一番美しい場所という栄冠を射止めたのが我が家の近所というのは意外でした。それで思い出したのは、私たち夫婦がナイアガラ大瀑布を訪れたときのことです。そばにいた男性が、私たちの典型的な観光客の振る舞いを見て、皮肉っぽく言いました。「大したことないじゃないか。こんなの毎日見ているよ。」

私たちはいとも簡単に自分を取り巻く環境に慣れてしまい、なじみの場所や体験を色あせさせています。初めは嬉しかったにもかかわらずです。神の栄光に取り囲まれていることは明らかなのに、日々の生活の忙しさにかまけて、そこに目がいかないことがあります。その上、神が人生に驚くほど介入してくださることを当たり前のように思います。十字架の死と復活に感激する心を失い、神の子どもとされたありがたさを忘れています。さらに、私たちは神のご臨在を喜ぶことを止めてしまい、創造の御業の美しさを見逃しています。

詩篇の作者は次のように宣言しました。「私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます」(詩145:5)。何と素晴らしいことでしょう。今日、神の「奇しいわざ」に思いを巡らす時間を取りましょう。そして、神の栄光を新鮮な心で感じましょう。

雄弁だが謙虚

自分の考えを相手に分かるように説明し、説得して自分に同意させてしまう、そんな話術の持ち主に感心させられます。そのような人のことを「口が達者」とか「説得力がある」とか言います。または「雄弁」とも呼ばれます。

アポロには、そのような才能がありました。彼は「雄弁(で)…聖書に通じていた」と記されています(使18:24)。アポロはイエスについて正確に語っていましたが、バプテスマのヨハネの洗礼を伝えていたにすぎませんでした。ヨハネの洗礼とは罪の悔い改めの洗礼です(18:25、19:4)。

アポロはイエスの教えを知っていましたが、イエスの死と復活、そして聖霊降臨については知らなかったのかもしれません(使2章)。聖霊に満たされて日々の力を得るということを知らなかったので、アポロの教えは不十分なものでした。

そこで、パウロの友人のプリスキラとアクラという夫婦がアポロを自宅に招待して、彼の間違いを正しました。アポロは立派な教育を受け、聖書を熟知していましたが、この夫婦の指導を謙虚に受け入れました。その結果、正しい理解のもとに伝道活動を継続することができたのです。

詩篇25篇9節は、神が「貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる」と述べています。私たちが謙虚な姿勢でいるなら、神に教えていただくことができます。また、神に用いていただくことができます。

信頼できる愛

何よりも傷つく言葉は、「もうあなたを愛していない」ではないでしょうか。この言葉はその人間関係に終止符を打ち、心を深く傷つけ、相手に対する期待を失わせてしまいます。このような裏切りによって、再び傷つくことがないように、二度と愛を信じまいと決心する人も少なくありません。すると、神の愛さえ拒んでしまう可能性があります。

神の愛が他と違うのは、決して尽きないという約束があることです。預言者エレミヤは絶望的な状況を経験して、精神的にまいっていました(哀3:13-20)。神の愛に応答して、神に従おう、というエレミヤの再三の頼みを、同胞が拒絶したのです。エレミヤは非常に落ち込んで、「私の誉れと、主から受けた望みは消えうせた」と言いました(18節)。

そのような最悪の状況でも、エレミヤは神の確かな愛に思いを巡らし、こう記しました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む」(哀歌3:22-24)。

仮に、永遠の愛を誓った人が、その約束を破ってしまったとしても、神の愛は揺らぎなく確かです。聖書は語ります。「あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(申31:6)。これこそ、信頼できる愛です。

感謝する

ミシガン州ランシングでは、冬に晴れることはめったにありません。けれども昨年、澄み切った晴天の日がありました。誰もが、神に感謝しているようでした。私が教会を出たとき、ひとりの男性が声をかけてきました。「本当にいい天気ですね。これは神さまの贈り物ですよ。」ところが私は、「でも、今週後半には、また雪が降るそうですよ」と答えたのです。何と否定的で感謝に乏しい発言でしょう。

使徒パウロは数々の手紙の中で、「感謝の神学」を深めるよう促しています。パウロは、新約聖書で感謝について誰よりも多く記しました。彼の手紙に「感謝」という言葉は49回も用いられ、その記述から、感謝について多くのことを学ぶことができます。

パウロの感謝は人にではなく、常に神に向けられています。人々は神からの贈り物であり、その人たちの愛や信仰、そして成長を、パウロは神に感謝しました(Ⅰコリ1:4、Ⅰテサ1:2)。また、すべての感謝は、イエスの御名によってささげられています(コロ3:15、17)。クリスチャンはすべての事について感謝すべきだとパウロは信じていました。神はすべてを支配されるお方であり、クリスチャンの益のために、すべてを取り仕切っておられるからです(Ⅰテサ5:18)。

自分の周りにある神からの贈り物に意識して目を留め、常に感謝しましょう。神が贈り物をくださったのです。「主よ、感謝します」と言うのは当然です。

収穫の日

秋の日の午後、車を走らせていると、巨大なコンバインが路肩に止めてありました。注意を呼びかける黄色い看板には、「収穫作業中」とありました。道路から畑を見渡すと、ここに何の種が蒔かれたかは一目瞭然です。とうもろこしの種です。農家の人がコンバインに乗って収穫しようとしていたのが、広大な畑に実ったとうもろこしだったからです。

とうもろこしの種を蒔くなら、いずれとうもろこしが実って、それを収穫するのは当たり前だと思うでしょう。しかし、私たちは信仰生活における種蒔きと刈り取りの関係を受け入れているでしょうか。使徒パウロは語りました。「思い違いをしてはいけません…人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラ6:7)。

自分の欲を満たす生き方をしているなら、他人のものを欲しがったり、自己中心的になったり、さらにはアルコールやギャンブル依存という状態にすら陥ります(5:19-21)。一方で、聖霊とともに歩むなら、平安、親切、自制といった御霊の実を結びます(5:22-23)。神のあわれみにより、私たちは「御霊のために」蒔き、永遠のいのちを刈り取る生き方を選び取ることができます(6:8)。

もしイエスが、今日、あなたの人生を刈り取ろうと宣言されたらどうでしょう。この一年、毎日どんな選択をしていましたか。その選択の実を集めなさいと言われたらどうでしょう。あなたは主に、何をお見せすることになりますか。

神が最近してくださったこと

神は自分のやったことを絶対に赦してくださらない、と考えている人に会いました。ところが、年配のクリスチャンが親身に彼を導き、1年後、その人はイエスを救い主として自らの心に迎えました。それだけでなく、彼は聖書をむさぼるように読んでいると聞き、私は大変喜びました。しかし、しばらくして彼と話したとき、彼の熱心さが不平に代わっていることを知りました。「神はなぜ悪い人たちを栄えさせ、こんなに多くの神の子どもたち(彼自身も含めての意味でしょう)が、ぎりぎりの生活をしているのを見過ごしておられるのだろう」という不満が、彼の信じる喜びを侵してしまったのです。

彼は、私たちの多くがそうであるように、キリストのあわれみがどれほど自分に必要だったか忘れてしまったようです。救われた時の感謝は色あせていました。彼の様子は、ブドウ園に雇われた人たちのたとえ話を思い起こさせます(マタ20:1-16)。この人たちの視点は、自らが仕事を得た感謝から、他人が何を得たかに移ってしまいました(10-12節)。

神は、私たちに何の恩義もありません。それなのに、キリストを受け入れるなら無償で救いをあげようと約束しておられます。神の気前の良さはそれだけではありません。この世の人生に助け主である聖霊を送ってくださり、天国で神とともに永遠に生きるための備えをさせてくださいます。不公平だと感じることがあるときは、神をしっかり見つめ、神のみことばに心を留めましょう。人に目を留めてはいけません。

創造の始まる前

息子のスティーブが10代のとき、ずいぶん難しい質問をしてきました。「お父さん、神さまは永遠の昔からおられた方でしょう。だったら、宇宙ができる前、神さまは何をされていたの?」

「初めに、神が天と地を創造した」(創1:1)と聖書は語りますが、その前は、どうなっていたのでしょう。ひとつ分かることは、創造前にも「知恵」があったことです。知恵は、神の品性に由来するものです。箴言8章23節は、知恵が擬人化され、「大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた」と語ります。

次に、神の恵みによる救いの計画は、大地の基がすえられる前にすでにあったことも分かっています。テモテへの手紙第二の1章9節によれば、恵みは「キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたもの」です。また、テトスへの手紙1章2節には、永遠のいのちは「永遠の昔から」約束されていたと記されています。私たちは、主イエスが「世界が存在する前」から神と一緒におられて、神の愛と栄光を受けておられたことを聖書から知っています(ヨハ17:5、24)。

このようにして、天地が創造される前の神をほんの少しだけ垣間見ることができます。そして、神がいかに大きくて畏るべきお方であるか、いかにとこしえなるお方であるか、という神の本質を若干ですが理解できます。私たちは、神の威光と偉大さを見ます。何と驚くべきことでしょう。私たちは、とこしえからとこしえにおられる神を崇めています。