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神にやすらぐ

長男が大学に行くために家を離れることになり、家族が揃って休暇を過ごすのは最後になるかもしれないという夏のことです。海辺の小さな教会で、それなりに小奇麗に身を整えて座っている5人の子どもたちを見ながら、心に愛が満ちて来るのを感じました。私は「主よ、どうぞ彼らの霊を守り、あなたから離れないようにしてください」と、彼らの課題を思いながら心の中で祈りました。

山に目を向ける

ブラジルのリオデジャネイロ市を見下ろすコルコバード山の頂上に、世界で最も大きいキリスト像がそびえ立っています。この彫像は高さが30メートル、広げた両腕の巾が28メートル、重量は635トンです。彫像は、昼も夜も、市内のどこからでも見ることができます。ちらっと山を見上げるだけで、贖い主キリストの像を目にすることができます。

警告の標識

巨大なコンクリートの手指が、半ば砂に埋もれながら、空に向かって伸びています。これは、ウルグアイのとある砂浜の風景です。地元の人たちが La Mano(手)と呼ぶこの造作物は、海で溺れた人を覚える記念碑です。泳ぎに来た人たちに水難の危険を警告する目的で、チリ人アーティストのマリオ・イララザバルによって作られました。La Mano は観光名所となりましたが、本来の目的は今でも、海が危険であることを海水浴客に思い出させることです。

険しい道

ジョン・パイパーは、著書「神の摂理は甘くて苦い」の中で次のように述べています。「人生は、ひとつの祝福から次の祝福へと続き、最終的に天国に至る、という一直線の道ではない。人生は曲がりくねった困難な道だ…困ったことが起こると神が現れて、尻拭いをしてくださる、ということではない。神は策を練って困った問題を管理し、神の遠大な目的のために、それを用いられる。神の目的は、私たちの徳を高め、イエス・キリストの栄光を表すことだ。」

見守る羊飼い

アイダホの羊飼いたちは、春になると羊たちを低地から山岳地帯へ移動させます。何千という羊の群れが山道を登って移動し、夏の牧草地に行きます。

私たち夫婦は先週、ショウ山で羊の群れを見かけました。羊たちは静かに流れる小川のかたわらの草地に寝そべっていました。詩篇23篇を彷彿させるような美しい光景でしたが、そこには羊飼いがいません。羊たちは、自分たちだけで群れているようでした。ところが、数匹が群れをさまよい出て渓谷の方に歩き出したときのことです。突然上の方から、鋭い笛の音が聞こえました。見上げると、羊飼いが群れを見下ろせる丘の上に座っていて、羊たちを見守っていました。彼のそばには1匹の山岳犬と2匹のボーダーコリーがいて、羊飼いの合図と同時に丘を駈け下り、迷い出た羊をもとの群れに戻しました。

主イエスは「良き羊飼い」ですから、あなたをこのように見守っておられます。あなたの目に神は見えないのですが、神の目にはあなたがはっきり映っています。神はあなたの名前を知っておられるし、あなたのすべてをご存知です。あなたは神の牧場の羊です(エゼ34:31)。神はご自分の羊を「救い出して、世話をする」(12節)と約束しておられます。「良い牧場」(14節)で養い、「傷ついたものを包み、病気のものを力づける」(16節)と語られます。

神は細心の注意を払って、あなたを守ってくださいます。あなたはそんな主に、自分を委ねることができるのです。

悪い知らせに打ち勝つ

多くの人が「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか」と言っている、というダビデのことば(詩4:6)は、今日の私たちにありがちな悲観的な見方に通じているようです。新聞の一面やインターネット、テレビのニュースには、犯罪や事故、政治経済の混乱、著名人のスキャンダルなどが大きく取り上げられています。職場でも家でも、話題になるのは困ったことばかりです。これでは誰もが悲観的になってしまいます。もっとましなニュースが聞きたかったら、どこに行けばよいのでしょう。

神は、苦しみから解放してくださり(1節)、祈りを聞いてくださいます(3節)。ダビデは、神を仰ぎました。そして、状況が一時的に好転することを願うよりも、絶えることのない神の励ましに心を留めて、「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください」と祈りました(6節)。その結果は、「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています」(7節)という賛美です。

ダビデは王位に着く前も後も、生涯、敵に追い回されました。しかし、一日の終わりには「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」(8節)と言うことができました。

詩篇4篇が語る神の守りという真理を、1日の始めや終わりに思いめぐらすことは、ふさわしいことです。

境界線に感謝しよう

これまで多くの人々と出会いましたが、神の命令に従ったために人生がめちゃくちゃになったという人に会ったことはありません。ところが、自分の生き方を神の道に合わせて変えていくべきだと語ろうものなら、今は個人の自由は不可侵の権利という時代ですから、「権利を侵害している」と見なされてしまいます。

隠れた扉

1年で聖書を!
◆ エゼキエル書4-7
聖書のみことば ヤコブ1:12-21
 
試練に耐える人は幸いです。―ヤコブ1:12

その種の事件はスポーツ界で前代未聞というわけではありません。これが最後でもないでしょう。しかし、この事件に言及することで、恥ずべき過ちを繰り返さないように、自分たちを戒めることができるかもしれません。

クリスチャンで人格者だと思われていた大学フットボールチームのコーチが、全米大学体育協会の規則に対する明確な違反が発覚して、辞任に追い込まれました。ある雑誌は、「彼を公明正大な人としてきたこと自体、大学フットボール界の大いなる神話だったのではないか」とまで述べています。

これは彼にとって何とも恥ずべき事態でしたが、それ以上に、誰にでも起こりうることだという私たちへの警鐘でもあります。人生に秘密の扉をこっそり作り、その向こうで主の御名を汚すような行為をするという誘惑に、人は絶えずつきまとわれます。誠実さと正しさを忘れ、キリストの名をはずかしめてしまうリスクは、誰にでもあります。私たちは皆、誘惑に弱いのです。

誘惑に負けないためには、どうすればよいのでしょう。まず、誘惑が常にあることを認識し(Ⅰコリ10:13)、罪の恐ろしい結末を理解しましょう(ヤコ1:13-15)。そして、クリスチャン同士で説明責任を果たしましょう(伝4:9-12)。それに加えて、転ばないように神の助けを祈りましょう(マタ26:41)。なぜなら、神の恵みと力のみが、私たちを転落から守ってくれるからです。また転んだときでも、助け起こしてくださいます。

(Dave Branon)

どんな罪にも入り口がある。その扉を決して開いてはいけない。

お願いする前に

1年で聖書を!
◆ エズラ記5-7
聖書のみことば マタイ6:5-15
 
あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる―マタイ6:8

翻訳者として奉仕するRBCミニストリーズのスタッフは、自分の仕事の喜びをこう語りました。「私たちは原稿を誰よりも先に受け取ります。誰よりも先に神のみことばの教えを受けるのは、何とすばらしい祝福でしょう。」また、彼女は言います。「翻訳をしていると必ず、私が直面している課題に関する何かに出会います。」