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なぜこの私を

英国人牧師ジョセフ・パーカーは、「イエスは、なぜユダを弟子に選ばれたのか」と質問され、しばし考えました。しかし、答えは出てきません。その上、「なぜイエスは、私を選ばれたのか」という、より難しい問題にぶつかりました。これは、現在まで問われつづけてきた問題です。人は、自らの罪深さを知り、罪悪感に圧倒され、イエスにあわれみを請います。そして、神が人を愛し、イエスが身代わりに死んでくださったので、すべての罪は赦された、という人の理解を超えた真理を体験し、驚き喜びます。

素晴らしい!

出張帰りの山田さんは、子どもたちにお土産を買おうとしましたが、店員は高価な品ばかりを勧めます。「もう少し手頃な物はありませんか」と尋ねると、ケチだと言わんばかりのいやみを言われました。しかし、どんな土産でも子どもたちは喜んでくれます。愛の心で買って帰るからです。もちろん、今回の土産も大好評でした。

信仰の家族

私たちの教会には1980年代、独身の人が集う「聖書の学び会」がありましたが、そこに集う人たちは、家族のように助け合っていました。離婚や死別でひとりになった人たちは、誕生日や連休を寂しく過ごさなくてよくなりました。信仰と友情があいまって、互いをずっと支えあう信頼関係が培われたのです。30年前、逆境の中で築かれたこの絆は、今も彼らやその家族と共にあり、豊かに実を結んでいます。

鏡を差し出す

モーセはイスラエルの全会衆を集合させ、みんなで幕屋を作り始めようと言い、ベツァルエルには、装飾を作る仕事をするようにと告げました。彼が青銅の洗盤を作るときには、大切な自分の青銅の鏡を差し出すように言われた女性たちがいた、と聖書は記しています(38:8)。彼女たちは、神の臨在が宿る場所のために、自分たちの鏡を手放しました。

まずは私から

私が「メルのノート」と呼んでいるのは、今は亡き娘のメリッサが聖書の欄外に残した短いメモで、みことばを自分の生活にどう適用させるかを記したものです。

神の選び

子どもたちが幼かったとき、いっしょに就寝の祈りをしました。しかし、祈る前にベッドの端に腰かけ、おしゃべりをしたりもしました。娘のリビーに、こんな話をしたことがあります。「世界中の4歳の女の子が一列に並んでいたら、パパは、そこに君を見つけようとするよ。列の最後まで歩いて行ってリビーを見つけると、その子をパパの娘にするんだ。」この話をすると、娘はいつもとびきりの笑顔になりました。自分は特別だと感じたからです。

愛についての問題

思考と感情が喧嘩するときは、しばしば心の判断が通ると「愛の一般論」という本に書かれています。以前は一般的に、人は頭(知性)で心(感情)をコントロールしていると言われていましたが、実はその反対であることが、最近の科学の発達によって分かってきました。要するに、「私たちが何者なのか、また、何者になっていくかは、私たちが何を愛するかにかかっている」というのです。

素晴らしい爆発

ケイティ・デイヴィスは著書「ケイトからキス」の中で、ウガンダに移り住んで、現地の少女たちを我が子として育てている喜びを述べています。ある日、娘のひとりが尋ねました。「ママ、もしイエスさまを心に迎えたら、私は爆発しちゃうの?」ケイティははじめは、そんなことはないから大丈夫と答えました。イエスを心に迎えるというのは霊性の問題だからです。

暗やみの 中から

詩篇77篇を書いたアサフの絶望的な状況が、具体的には何だったのか、私たちには分かりません。しかし、私自身、同じような嘆きを口にし、同様に嘆く人と出会ったことがあります。娘を亡くしてから十数年、家族を失った経験のある多くの人たちが、アサフのような悲痛な叫びを分かち合ってくれたからです。