愛って何?
子どもたちに「愛って何?」と尋ねると、素晴らしい答えをしてくれます。7歳のノエルはこう言いました。「お友だちのシャツをほめてあげたら、その子が毎日それを着てくれた。」また、8歳のレベッカは「私のおばあちゃんは足腰が痛くて前かがみになって足の爪を切ることができないの。それで、おじいちゃんがいつも切ってあげるのよ。おじいちゃんは指が関節炎で痛いのだけれど。それが愛よ」と答えました。8歳のジェシカは「本心でないなら『愛している』なんて絶対言ってはダメよ。でも、本当に愛しているなら、いっぱい言わなくちゃ。みんな忘れやすいから」と言いました。
辛い鍛錬
ダイヤモンドは美しく価値のある宝石ですが、もとは黒くて汚い可燃性の炭素です。それが高熱と高圧に長い間さらされて、強く純粋な石になります。このことは、霊的に強くなることを説明する良い例です。神は強い外からの力を用いて、私たちの心の不純な部分を取り除き、神の力が私たちの内に完全に現れるようにされます。
自尊心との戦い
古代ローマの将軍が戦争に勝って帰還すると、戦勝パレードが行われました。その行列には軍の兵士たちと一緒に、勝利のしるしとして連れ帰った捕虜や戦利品も加えられました。そして、パレードが町中を通ると、群衆は英雄の成功に喝采をおくりました。
見捨てられていない
何年も前、夫婦でワシントンDCにあるスミソニアン航空宇宙博物館を訪ねた時のことです。ホールに一台のベビーカーがぽつんと置かれ、そばには誰もいませんでした。たぶん持ち主はかさばるベビーカーを置いて、子どもだけを抱いていったのだろうと思いました。ところが、そばに寄ってみると、赤ちゃんが中で寝ているではありませんか。親はどこにいったのでしょう。兄弟、それともベビーシッターがいるのでしょうか。しばらく待ってみましたが、これは自分の大切な赤ちゃんだと言う人は現れません。それで、博物館の職員を呼び、赤ちゃんが安全なところで保護されるのを見届けて、その場を離れました。
このことがあって、「見捨てられる」ということについて考えさせられました。それは、この世の誰にも求められていないと痛切に感じることです。どれほどの悲しみでしょう。しかし、人が見離したとしても、神は違います。神の愛と臨在は確約されています。神は、決して私たちを見捨てないと約束され(申31:8)、どこへ行くときも共にいる、いつも必ず、世の終わるときまで一緒にいると言っておられます(マタ28:20)。
私たちは神の子どもであり、神がご自分の子に対する責任を放棄することはいっときとしてありません。神はいつもかかわっておられます。誰に捨てられても、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ロマ8:35-39)という神の約束を固く信じることができます。
栄光の冠
宇宙探査機ボイジャー1号は1977年に打ち上げられ、地球から180億キロメートル以上離れた太陽系の果てを飛行中です。1990年2月、科学者たちは地球からおよそ60億キロメートル地点にいたボイジャー1号のカメラを地球の方に向けて写真を撮りましたが、その写真は、私たちの住む地球が宇宙の大海原に漂う青い微小な点であることを明らかにしました。
この広大な銀河の大海原のちっぽけな石ころの上に、70億人以上の人が住んでいます。
これが現実なのだから自分は取るに足らない存在だ、と思いますか。それなら良い知らせがあります。聖書に耳を傾けてください。
ダビデは詩篇の中で、巧みな言葉で問いかけています。これを読んだあと外に出て夜空を見上げるなら、喜びに心がふるえるでしょう。詩篇8篇3節から5節は、私たちは神の目に夜空の星より大切な存在だと語ります。「あなたの指のわざである天を見、…人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。…あなたは、…これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」このみことばを深く心に留めましょう。神は、ハッブル望遠鏡でも端の見えない広大な宇宙に命令を下されるお方です。このお方が、あなたを創られ、あなたに心を配っておられます。あなたを深く愛しておられるので、御子イエスに、天国から下り、あなたのために死んで欲しいと言われたのです。
不思議と驚きをもって、神の被造物を見上げましょう。そして、神の御子イエスを通して栄光の冠をかぶらせてくださった神を賛美しましょう。
なぜなら
◆ ヨブ記1-2
◆ 使徒7:22-43
ある日、3歳の息子が大きな声で「ママ、大好き!」と言いました。私は、何が幼児にそう言わせるのか好奇心にかられて、なぜそうなのか尋ねてみました。すると息子は「いっしょにおもちゃの車で遊んでくれるからだよ」と答えました。その他に理由はあるかと聞くと、「ないよ。それだけ!」と答えました。私は、それを聞いてにっこりしましたが、同時に、私と神との関係を考えさせられました。私は、神が祝福してくださるから、神を愛し、神を信頼するのでしょうか。もし、その祝福が無くなったらどうするのでしょう。