Month: 2月 2013

新ルートを検索

大丈夫、道は分かってるからと言ったのに、人間そっくりの声が「新ルートを検索します」と横槍を入れてきました。やれやれ、これで道に迷っていると同乗者にバレてしまいました。

「新ルートを検索します」の声を聞くと、車を運転する人なら誰でも、角を曲がりそこねたり、道を間違えたりしたのだと分かります。カーナビは、道を外れたことを探知するだけでなく、正しい道に戻るためのルートをすぐさま検索してくれます。

クリスチャンも時として、(霊的な意味で)歩むべき道に戻るために、助けが必要になります。自分にとっての最善は自分が一番よく知っていると主張して、わざと道を外れる人があります。また、神がともに歩みたいと願っておられる道から、だんだん離れて行っているのに、そのことに無頓着な人もいます。

けれども、神はそんな私たちを放ってはおかれません。神はすべてのクリスチャンに聖霊をくださいました(ヨハ14:16-17、Ⅰコリ3:16)。その聖霊は、私たちの罪を指摘されます(ヨハ16:8、13)。私たちが道をそれかかると警告を発して、私たちの良心を呼び起こされます(ガラ5:16-25)。神の警告を無視するのはその人の勝手ですが、そんなことをすれば、結局は自分の身に損失を招きます(イザ63:10、ガラ6:8)。

「罪を示す」という聖霊の働きを通して、神が私たちの生き方に働きかけてくださるのは、何と安心なことでしょう(ロマ8:26-27)。神の助けと導きによって、私たちは神に喜ばれる歩みを続けることができます。

待ちなさい

サンフランシスコで車の渋滞に巻き込まれた男性が、しびれを切らして隣の車線に移りました。そして、停車している車の列を追い越して行こうとしました。ところが、この車線は工事中で新しいセメントが敷かれたばかりです。男性のポルシェ911は、セメントの泥にはまって動かなくなってしまいました。彼の短気は非常に高くついたのです。

聖書にも、忍耐できなかったために高い代償を払った王の話があります。イスラエルの王サウルは、ペリシテ人との戦いを目前に控えて、神の祝福を得ようと思いました。ところが、いけにえをささげるはずのサムエルが予定どおりに到着しません。サウルは忍耐することができず、しびれを切らせて神の命令に背いてしまいました(Ⅰサム13:8-9、13)。遅れに我慢できない性格が、サウルを自分は律法以上の者だと勘違いさせました。そして、祭司にしか許されていない奉仕を行ったのです。神の教えに従順でなくても何とかなると思ったのかもしれませんが、それは間違いでした。

到着したサムエルは、サウルの不従順を批判し、その罪のために王国を失うだろうと預言しました(13-14節)。サウルは、神のご計画が実現されていくのを忍耐して待つということを拒絶して急ぎ足で行動し、大きな失敗を犯しました(箴19:2参照)。サウルの忍耐の無さは、彼の不信仰を顕著に現していたのです。

神のみこころの実現を忍耐強く待つなら、主がともにいて導いておられることは明らかにされてきます。

実演の効果

生態学者のマイク・ハンズは過去20年間、中米の農家の人たちに、従来よりも効果的な作物の栽培方法を伝授しようと努力してきました。とはいえ、現地の人の多くは、昔から受け継がれてきた焼畑農業をやめることができません。この方法では土壌が痩せ、大気を汚染させてしまうと分かっているにもかかわらずです。

そこでマイクは、ただ言葉で説得するだけでなく、実際にやってみせることにしました。ドキュメンタリー映画「マメの木が森を救う!~焼き畑農業からの脱却~」の中で、マイクは語ります。「いくら教えても、いくら説明してもダメです。やってみせなければなりません。彼らは、実際に自分でやってみて、その結果を自分の目で見なければならないのです。」

使徒パウロも、同じ方法でイエス・キリストの福音を伝えました。コリントの教会に宛てた手紙には、次のように書かれています。「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした」(Ⅰコリ2:4-5)。また、「神の国はことばにはなく、力にあるのです」とも述べています(4:20)。

日々の生活の中で、言行が一致するように神に祈りましょう。私を通してご自分を現してくださいと自分を差し出すなら、神の恵みと愛が力強く現されます。

奉仕の賜物

ふと気づいたのですが、オートマチック車を運転するとき、ペダルを踏むのはいつも右足です。右足だけでアクセルとブレーキを操作し、その間、左足は何もせずじっとしています。これでは不公平なので、左と右の足を半分ずつ使い分けて運転しようと思ったならどうでしょう。こんなことは絶対にやってはいけません。

身体の部分には、そんな不公平があってよいのに、教会の中では皆が公平でなければならないと考えるのはどうでしょう。これが、ローマの初代教会が直面していた問題です。一部の人たちは、自分がある特定の奉仕(他の人はしていない)をしているということで、身の程知らずに思い上がっていました(ロマ12:3)。しかし、パウロは「すべての器官が同じ働きはしない」と書いています(4節)。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っています(6節)。神は他の人に仕えるために、その賜物をくださいました(6-13節)。私たちは人にではなく主に仕えているのですから、勤勉で霊に燃えつつ仕えるべきです(11節)。

ですから、あの人は〇〇をしているのに、私はそれができないとか、逆に、私ばかりが〇〇をして、あの人はしないなどと気にするのはやめましょう。そして、神があなたをどのように用いることができるかを考えましょう。今、神の国で、どのように用いていただけるかを考えるべきです。神は、御心のままに、あなたに賜物を与えられたのですから(3節)。

エール

ジョン・グレンは1962年に、地球周回軌道を初めて飛行したアメリカの宇宙飛行士です。ロケットが上昇したとき、地上の管制官はジョンに向けてエールを送りましたが、それは「神があなたを繁栄させてくださるように!」という意味の言葉でした。

このような支援の気持ちを表すことばのふさわしい使い方について、聖書の中に教えが残っています。それは、ヨハネの手紙第二1章10節に「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません」と記されている、この「あいさつのことば」と訳された部分です。

使徒ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれていました。にもかかわらず、なぜ、このように教えたのでしょう。それは、当時の伝道者たちの生活に関連しています。伝道者たちは、各地で教えを宣べ伝えましたが、その際の宿や食事は、キリスト者である兄弟姉妹が提供していました。ヨハネは、聖書の真理が重要であり、旅の伝道者の教義が使徒の教義と違うならば、その人を家に泊めたり、お金をあげて支援をすべきではないと教えたのです。

これは今日のクリスチャンにも言えることです。私たちは、神にあわれみを受けているのですから、すべての人に親切にしなければなりません。しかし、誰かの計画に金銭的な援助を求められたときは、いつでも、神の知恵を求めなくてはなりません。私たちを真理へ導いてくださる聖霊(ヨハ16:13)は、いつ、誰を支援するのが適切なのかを示してくださいます。

神を呼び求める

信仰を持って長くたちますが、まだ祈りを完全には理解していません。私にとって、祈りは神秘に満ちています。しかし、ひとつ分かっていることは、切羽詰ったとき、祈りは自然に心の奥底から湧き上がり、口をついて出るということです。

気が動転したとき、怖いと感じたとき、もう限界だと思ったとき、自分の小さな幸せが奪われそうになったとき、または大きなチャレンジを受けたときなど、私たちは反射的に、そして無意識に祈ります。そんなときは普通、「主よ、助けてください!」と叫び求めるのです。

神学者のユージーン・ピーターソンは「祈りの言葉は、困難な試練の中で錬られる。自分の力ではどうにもならず助けを求めるとき、自分の置かれた状況から抜け出したいと思うとき、自分が嫌で変わりたいと思うとき、私たちは飾らない素朴な言葉を使い、この言葉が祈りの基礎になる」と記しました。

祈りは困った出来事から始まり、続いていきます。なぜなら、私たちは多かれ少なかれ、常に何らかの問題を抱えているからです。祈りは特別な準備を必要とせず、正しい用語というものもありません。また、定められた作法もありません。祈りは、私たちが必要に迫られるところから始まり、やがて私たちの習慣になっていきます、私たちは、良きにつけ、悪しきにつけ、人生のあらゆることに対して祈るようになります(ピリ4:6)。

どんなことでも神に祈ることができるのは、何と素晴らしい特権でしょう。

どうでもよい存在

レアは「ヤコブが起きたらどうなるのだろう」と考えながら、一晩中起きていたに違いありません。新婚の夫が朝になって目にしたいのは、自分の姿ではなく妹のラケルだということを知っていたからです。ヤコブはだまされました。そして、罠にかかったと気づくやいなや、意中の女性を求めて、新たな取引をしました(創29:25-27)。

あなたは、自分はどうでもよい存在だと感じたことがありますか。レアの場合はそうでした。彼女が3人の子どもにつけた名前から、それが分かります(31-35節)。ルベンは「子を見よ」、シメオンは「聞かれる」、レビは「結ぶ」という意味でした。彼らの名前は言葉遊びのようなもので、彼女が夫の愛を感じていなかったことを示しています。息子が誕生するごとに、彼女は今度こそ夫は愛してくれるだろうか、と望みをかけました。しかし、レアの気持ちは徐々に変化し、4番目の息子を「ほめたたえる」という意味のユダと名付けました(35節)。きっと彼女は、夫は愛してくれなくても、神が自分を深く愛してくださっている、と気づいたのでしょう。

私たちは、自分の行いによって神の愛を獲得することはできません。神の愛は、私たちの行為次第ではないからです。真理は聖書に記されています。それは、「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」と語ります(ロマ5:8)。私たちは神の目に、天国にある最高の存在を贈るだけの価値があると映っています。天国にある最高の存在とは、神の大切な御子キリストです。

小さな犠牲

イースターが近づくと、イエスはご自身を犠牲にして、私と神が和解できるようにしてくださったということに思いを巡らします。そして、私のためにすべてを犠牲にされたという事実に焦点を合わせるために、自分も小さな犠牲を払います。つまり、好きな物(または事)をひとつ、我慢するのです。好きな物(事)は我慢すると、それを求める気持ちがいっそう募ります。それは、イエスが私のためにどれほどの犠牲を払ってくださったかを気づかせてくれます。

私は「〇〇断ち」に成功したいので、無理のないものを断つようにしがちですが、それでも失敗します。そんな小さなことさえ完全にできない自分の無力さは、イースターの重要性を私に思い知らせてくれます。もし私たちが完全であるなら、イエスは死ななくてもよかったのです。

イエスがユダヤを巡っておられるときに出会った若い金持ちの男性は、自分の良い行いによって永遠のいのちを得ようとしていました。しかし、人間は誰ひとり、救いにふさわしいほどの良い人にはなれない、とご存知のイエスは、「それ(救い)は人にはできないことですが、神は、そうではありません」と語られました(マコ10:27)。

イエスの犠牲を思って、何かをあきらめることが良い人や尊い人を作るのではありませんが、その行為は、神以外に尊いお方は無いということを思い出させてくれます(18節)。これは、覚えておくべきことです。この尊いお方、完全な神が犠牲を払い、私たちが救われることを可能にしてくださいました。

最高の人生

数ヶ月前、フロリダに出張した帰りの飛行機の座席は、思いがけず足元のスペースが広い席でした。その上、隣は空席だったのでラッキーです。これならば、狭い場所に縮こまらなくてよいどころか、ゆっくり昼寝ができるかもしれません。

しかしふと、あまり快適でない席にいる同僚たちのことを思いました。何人かに隣の席に来るように誘いましたが、驚いたことにあれこれ理由をつけて誰も移動しません。移動するのはめんどうだし、今の席で十分だと言うのです。

クリスチャンは、もっと大切なことに人を招待しなくてはなりません。招待を受け入れる人も、そうでない人もいるでしょうが、自分はキリストを信じる新しい人生を受け取り、他の人にも同じ経験をして欲しいと願っているのなら、そうすべきです。ヨハネの福音書1章40節を読むと、アンデレは、イエスについて行ったことが分かります。そして最初にしたことは、兄弟のシモンを見つけて、メシヤであるイエスに会わせる、ということでした(41節)。イエスはこの兄弟たちに、キリストを知り、キリストの約束を体験する新しい生き方を示されました。その約束とは次のことです。イエス・キリストの贖い(ロマ3:24)、イエスは決して離れずあなたのそばにいる(ヘブ13:5)、イエスは希望にあふれさせてくれる(ロマ15:13)、イエスは平安を与えてくれる(ヨハ14:27)、そして、イエスはいつまでもともにいてくださる(Ⅰテサ4:17)。

あなたもイエスを信じる輪に加わりませんか。イエスは最高の人生をくださいます。