限られた生涯
ある男性が、巨大な竜巻で無残な姿になった自宅の前にたたずんでいました。家の残骸の中には、高価な美術品や妻の宝石などが散らばっています。しかし、それらを拾うために家の中へ入ろうとはしません。いつ崩れるか分からないからです。「命をかける価値があるものでは無いですから」と、彼は言いました。
危機的な状況に置かれると、人生で本当に大切なものにはっきりと焦点が当たります。
詩篇90篇はモーセの祈りです。神の人であるモーセは、人生を初めから終わりまで見渡しました。人生の短さ(4-6節)と神の義なる怒り(7-11節)という観点に照らして、モーセは「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」と切に祈りました(12節)。
そして、モーセは神の愛に訴えました。「あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ」てください(13-14節)。モーセの祈りは、未来のために祈って締めくくられています。「私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください」(17節)と。
人の命には限りがあり、その上長くもありません。そのことに目を留めるなら、私たちは神の永遠の愛をしっかりと受け止める必要性に気づくはずです。そして、モーセのように、人生で最も大切なことに焦点を合わさなければならないと分かるでしょう。
ギリシヤ火薬
ギリシヤ火薬はビザンチン帝国が戦場で用いた、液状の化学兵器です。あるインターネットサイトの情報によると、この兵器は672年頃に開発され、水の上で燃えるため海上戦で絶大な威力を発揮し、敵に壊滅的な被害を与えました。では、このギリシヤ火薬とはいったい何だったのでしょう。その成分は今でも謎です。あまりに有効で価値ある兵器だったので、製造法は門外不出のトップシークレットでした。そのために謎が多く、歴史の闇に葬られていったのです。今日でも、この古代の破壊兵器を再現しようと研究が続けられていますが、未だ成功には至っていません。
一方で、キリストを信じる人同士の人間関係に壊滅的な打撃を与えるものは何かといえば、その答えは明らかです。使徒ヤコブは、クリスチャンの人間関係を壊すのは一種の「火」であると述べていますが、これはギリシヤ火薬とまったく異なった「火」です。ヤコブは、「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し」と語ります(ヤコ3:6)。彼の強い主張は、私たちの軽率な発言が、いかに大きな害を周囲に及ぼすかを再確認させてくれます。
自分の口で「ギリシヤ火薬」を作って、家族や教会の人間関係を損なわないようにしましょう。むしろ、聖霊の支配に委ねた発言をして、主の栄光を表しましょう。
聖なる方向転換
自分のこだわりを貫こうとするほうなので、決められたスケジュールに何かが割り込んでくると、私の心中は穏やかではありません。それ以上に困るのは、人生の進路が大きく転換させられることです。それは時として痛みや不安をもたらします。しかし、神は、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる」と言われます(イザ55:8)。こうおっしゃる神は、私たちには転換が必要であり、もし、自分の考えに固執し続けるなら、より良い人生を送ることができないことをご存知です。
ヨセフについて考えてみましょう。神はヨセフをエジプトに送られました。神の選びの民を飢饉から救うためです。モーセはどうでしょう。彼は、パロの家の華やかな生活から方向転換させられ、荒野で神と出会いました。神の民を約束の地へ導く準備をするためです。
ヨセフとマリヤはどうでしょう。このふたりは、この世で一番重大な方向転換を天使によって告げられました。マリヤの産む赤子は、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」だというのです(マタ1:21)。ヨセフは、自分の存在の目的が自分の思いをはるかに超えた大きいものであることを信じて、この大転換を受け入れました。そして、命じられたとおり「その子どもの名をイエスとつけ」ました(25節)。後に続くのは、素晴らしい歴史の真実です。
自分の思い以上に大きな神のご計画を信頼することは、私たちにもできます。神のご計画は、私たちの思いをはるかに超えた良い働きを、私たちの人生に刻んでくださるからです。
不可解な真実
無限の神が、有限の人間にご自分の心を伝えようとなさっても、その結果は不可思議としか見えないことがあります。その一例は詩篇の一節、「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」(詩116:15)です。一読では納得のいかない、むしろ疑問の深まる個所です。
そんなことがあるだろうかと思ってしまいます。私たちは持って生まれた肉の目でものごとを見ます。そして、最愛の17歳の娘を交通事故で奪われた私は、このことの何が「主の目に尊い」のだろうと思います。愛する人を奪われた人はみな、そのように思うのではないでしょうか。
けれども、主の目に尊いとは、地上の恵みを受けることに限定されないと考えるとき、この謎は解明されていきます。このみことばは、天国の視点に基づいています。例えば、私は詩篇139篇16節を読んで、娘のメリッサが天国に入ることは予定どおりだったと納得することができました。神は彼女の到着を心待ちにしておられ、それは「主の目に尊い」ことでした。また、ご自分のところに迎え入れられた神の子どもたちが、長子であるイエスと対面して感動に酔いしれるとき、その姿をご覧になった天の父である神は、どれほど嬉しいことでしょう(ヨハ17:24参照)。
キリストを信じる人が死ぬとき、神は、両手を広げてご自身の臨在の中に、その人を迎え入れてくださいます。私たちは涙を流しますが、それでも、その人の死が神の目にどれほど尊いかは理解することができます。
立ち往生
テネシー州のメンフィスからミズーリ州のセントルイスまではバスで6時間です。ただし、これは運転手が乗客をサービスエリアに置き去りにしない場合の話です。ある日、バスに乗っていた45人の乗客は、最初の運転手に置き去りにされると、代わりの運転手が到着するまで夜通しで8時間、待つはめになりました。彼らは予定が狂ったことに苛立ち、このままで果たして大丈夫だろうかと不安を感じたでしょう。今か今かと、救援の到着を待ちわびていたに違いありません。
身に覚えのない罪で獄中にいたヨセフの気持ちは、この人たちの比ではなかったでしょう(創39章)。助けてもらえるはずの人に忘れられてしまって、途方に暮れたに違いありません。しかし、「主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し…監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた」のです(創39:21-22)。それは、ヨセフが何をしても、主がそれを成功させてくださったからでした(23節)。しかし、神のご臨在と御恵みにもかかわらず、ヨセフは長年獄中にいました。
あなたは今、病院や刑務所、故郷から遠く離れた土地にいて途方に暮れているでしょうか。あるいは、自分の殻に閉じこもって、どうにもならなくなっているかもしれません。けれども、あなたがどこにいようと、また、どれだけ長くそこにいたとしても、神のあわれみはあなたに届きます。なぜなら、神は、全能であられ(出6:3)、天にも地にも満ちておられ(エレ23:23-24)るからです。誰も助けてくれない、と思われる時も、あなたを守り、前進させ、必要を満たしてくださいます。
行ないによって
ある牧師が夜、教会に向かって歩いていると、銃を持った強盗に襲われました。命が惜しければ金を出せと言われて、財布を差し出そうとポケットに手を入れたとき、強盗は、つめ襟の牧師服に気づいて、「あんた牧師だったのか。だったら金はいらない。行ってくれ」と言いました。牧師は、強盗の思いがけない態度に驚いて、チョコバーを1本差し出しました。すると、「いいや、結構だ。俺は受難節のあいだは、甘い物を絶つことにしている」と言ったのです。
この男は受難節には何かを犠牲にするということで甘い物を絶っていましたが、強盗で暮らしを立てているのですから、それが彼の本性です。神を畏れているとは言えません。
箴言の著者によれば、その人の行いが、その人の人格を計る最も正確な指標です。「自分は神を敬っている」と言うなら、その人の行動がその言葉と一致していなければなりません(箴20:11)。これは、イエスの時代の宗教指導者にも当てはまることでした。イエスは、パリサイ人を非難されました。自分たちの罪を認めようとせず、見せかけの敬虔に終始していることを暴露されたのです(マタ23:13-36)。
人の外見や言葉は、当てになるとは限りません。人格を判断するには、その人の行動を見るのが一番です。この事実は、私たち全てに当てはまります。
主イエスに従う者は、主に対する愛を口先だけではなくて行動によって表します。神が愛してくださったので、私たちは自分を神にささげます。その献身が、今日、私たちの行動を通して明らかになりますように。
教訓
夏のある日、高校の同窓会に出席すると、後ろから肩をたたく人がありました。私は、その女性の名札を見ながら、当時の記憶をたどりました。すると、小さく折りたたんだ紙が、私のロッカーにねじ込まれていた事件を思い出しました。その紙には、悪意に満ちた誹謗中傷の言葉が乱暴に書かれていました。私は深く傷つき、「なんて無神経な人なんだろう」と思ったものでした。青春の痛みがよみがえってきたように感じましたが、作り笑いを浮かべて彼女と適当に話をしました。
ところが彼女は、不遇な幼少時代や不幸な結婚生活について次々と話し出しました。その時ふと、「苦い根」(ヘブ12:15)という言葉が心をよぎりました。「ああ。そうなんだわ」と、私は思いました。長い間、この「苦い根」が私の心に張っていたのです。そして、私の心をがんじがらめにしていました。
「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ12:21)という聖書のみことばが心に浮かびました。私たちは語り合い、ともに涙を流しました。ふたりとも過去の出来事には触れませんでした。
その日の午後、私は思い知らされました。心の中にぎゅっと押し込めていた苦々しい気持ちを解き放って、神に委ねなければならないと。神は私に赦すことを教えてくださいました。
ちょうど良い
この「デイリーブレッド」を執筆するのは私の大好きな仕事ですが、短いデボーションエッセーで100パーセント伝えたいメッセージを言い表すのは大変です。友人に「もう少し長く書けると良いのだけれど…」と愚痴をこぼすこともまったく無いわけではありません。
今年の聖書通読のスケジュールに従ってマタイの福音書を読んでいて、あることに初めて気づきました。キリストがサタンに誘惑されるところは(マタ4:1-11)、なんて短いのだろうと思ったのです。このマタイの記した、聖書の中心的な出来事のひとつは、ほんの半ページほどで記されています。短いけれど力強い聖書個所が、他にも思い出されました。詩篇23篇や、マタイの福音書6章9-13節にある主の祈りです。
伝えるべきことを伝えるために、言葉数が多くなくても良いことは明らかです。ただ、言葉を賢く選ばなければなりません。人生の他の分野にも同じことが言えます。時間やお金、空間なども多い少ないではなく、いかに賢く用いるかです。神のみことばは、神の国とその義を求める者の必要を満たすと断言しています(マタ6:33)。詩篇を書いたダビデもまた、「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」(詩34:10)と私たちを励ましてくれます。
もしも今日、「もう少しあれば…」と思っているなら、愚痴をこぼす前に考えてみましょう。あなたに「ちょうど良い」ように、神は与えておられるのではありませんか。
味わう
それぞれが忙しく走り回っている社会では、友だちとゆっくり食事をする機会はなかなかありません。アメリカでは、フルコース料理を楽しむ唯一の方法は全部をサンドイッチにすることだ、と言った人すらいるそうです。
バビロンで捕囚生活を送っていたイスラエル人の多くが、神殿と城壁を再建しにエルサレムに戻ってきました。その人々は、神がモーセを通してイスラエルに与えた律法の書を持ってくるよう祭司エズラに願い、その朗読に耳を傾けました(ネヘ8:1-3)。彼らは、神のみことばを何時間も聞き、レビ人たちがそれを解き明かしたので、「民は読まれたことを理解した」のです(8節)。
民は自分たちの至らなさを悟って泣きましたが、祭司エズラと総督ネヘミヤは、今は悲しむときではなく、喜ぶときだと言いました。ネヘミヤは、ごちそうを食べ、ぶどう酒を飲み、自分でごちそうが準備できない人にはごちそうをふるまってあげなさい、と言いました。「悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ」(10節)と言いました。「こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである」と聖書は記しています(12節)。
神が準備してくださった霊のごちそうは、みことばです。このごちそうをいただくのは、非常に嬉しいものです。時間をかけてゆっくり味わいましょう。